予測と違う未来の捉え方
ベルグソンは未来予測を語りません。何故現在とイマージュの接点を語るのに、未来予測を述べないのか、疑問に思った時期がありました。最近blogで、「映像による音生成」、「ナラティブ・パッケージ」、「プロセス絵画2・・・」を書き、「偶然」の出来事を積極的に解釈し、新たに生成する展開を述べてきました。そのことにベルグソン的側面を感じておりました。また昨今の風潮が予測に傾きすぎていて、未来は偶然性と相まって創出していくものだとする考えが相対的に力を失ってきていると感じています。そこで、過去「ベルグソンが未来予測しないのは何故か」と思っていたことを再度考察し、まとめておこうと思いました。ベルグソンについて、2025.06.26のblog「イマージュ」, 2025.05.19「「量と質の変換1」・・・」で扱っています。今回は「持続」がキーワードです。
私が最初に疑問に思ったのは、ベルグソンの有名な円錐モデルです。平面が現在で円錐は過去を表し、平面と円錐の頂点が接している図です。過去が現在に向かって流れ込む構造(イマージュ)を示しています。この図に「未来」は描かれていません。これを見てどうして、と思ったのです。ベルグソンにとっては、未来は「予測するモノ、可能性の集合」ではありません。「持続」の中から創造される存在です。これは予測とは別の在り方です。現在ではベイズ推定や学習によって、未来を推定することが多く、何でも推定できるように考えているようにも思えます。ベルグソンはそうした未来予測を否定しているわけではありませんが、そうでない側面に生命を感じていたようです。例を使って考察してみます。
メロディの例
ベルグソン自身が使った例として「メロディ」があります。メロデイは、前の音が次の音に意味を与えながら流れていきます(「持続」)。ずっと続いている流れの中で次が創造されているのです。音楽は基本的には規則です。通常は同じスケールの中から音を選択します。コード進行も、このコードの次に相性のいいのはこのコードだというのがあります。そうしたスタンダードから選択しても音楽になります。私が作製している自動作曲はこの範疇です。ベルグソンが述べているのはそういう仕方、選択ではありません。メロディや歌詞の流れから、気持ちの変化を表す時に音楽規則のスタンダートからずれたコードを使ったり、転調したり、別の音を加えたりするわけですが、そうしたことが流れの中で質的な変化をもたらします。流れの中で創造することに相当します。これは統計的な解釈からはずれたものです(しかし、現在ではそれさえも学習できる可能性はあります)。
旅行の例
つい最近、1泊の手軽な旅行をしました。行く前にAとBに行くと決めていました。しかし、実際旅行していて、ドライブインの看板に近くにCがある、というのを見て、行ってみようと思い立ちました。またホテルで泊まった際、この場所がどんな所かを検索していると、古い歴史を持ち近くに国宝があることを知りました。そうするとここにも行こうと、思い立って行きました。こういうのは、偶然知ったことで行動が変わる例です。この中にも「持続」があります。それは私が歴史や風土を知るのが好きだということがあり、これまでの体験や教育等が関係しています。ですので私の基底に流れている「持続」があるのです。この影響を受けて、偶然見つけた事柄に関心を示し、行動に至るのです。目につくこと自体も影響を受けてのことだと思います。これはあらかじめ予測できることではありません。特に個人的なことですから、一般に予測できるようにはならないでしょう。
未来は現在から過去が流れてきて創られていく。その感じがつかめると思います。何も発明・発見に至るような創造だけでなく、日常にも多くあります。
映像による音生成の例
「持続」の概念からblogを書くことは多くあります。先回の映像による音生成もそうだと言えます。自動作曲プログラムを作製しており、それがリアルタイムに曲を作っていくので、その体験が、音も映像から作れるのではないかと思ったのです。また次は何でblogを書こうかと常に思っているわけですが、その気持ちがプログラムすることを促したのでしょう。私の体験や心の動きの「持続」が作製に向かわしたと言えます。こうしたことはあらかじめ予測できないことだと思います。その時が次の行動(未来)を作っているのです。
未来予測と違う捉え方
ベイズ推定やAIの発達により何でも予測できるような印象がありますが、そんなことはありません。またそれではつまらないと思います。未来は推定する場合の他に創造する場合があることをベルグソンは述べています。
予測できないと言う点では、考えないといけないことが多くあり、複雑すぎて予測できないと言う場合もあるでしょうが、本質的に「暗黙知の次元」のような体験として得ていることがらは、言葉であるいはプログラムでかけない要素があります。書けないモノは数値化して予測できません。現在ではこうした場合でも予測しようとしています。それがAIにより体験のパターンを学習することです。しかし尚今回挙げた、偶然のできことから共鳴して過去の記憶を使って新たに創られるイマージュが流れこんできて決まるようなことは、その人の「偶然」と「持続」によりますから予測は困難ですし、予測することはではなく、創られていくモノです。現在に流れ込んだイマージュを利用して未来を創造していくことになります。そしてこれは何も特別なことではなく、先に上げたように日常にもあります。
ベルグソンが未来予測をしない理由は次のように解釈できます。ベルグソンは「持続」を重視するので、現在・過去・未来といった分節・分割を好みません。そして、未来は現在がイマージュとして流れ込んでくる新たに意味付けされた過去と接することで創られていくものです。この時に質的変化を伴います。予測のような数値的な量で測れるものではありません。イマージュは現在が過去と共鳴して新たな意味を創り出すもので、過去の体験そのものではありません。現在が起点で過去も未来も創っていくのです。だから、ベルグソンは空間のようにここからは過去、今は現在、ここからは未来というように、時間を分割しないのです。「持続」の流れの中にあるのです。そしておそらくこの現在を起点に「持続」の中で捉える視点が、創造・創発に繋がっていくのだと思います。
純粋持続
ベルグソンは「純粋持続」という言葉も使っています。これは「時間」のことを述べていますが、時計の時間ではなく、「内在的な時間」、「体験に根差した連続した時間」を指しています。次のように考えると分かりやすいと思います。フッサールの現象学で「エポケー」という概念があります。これは、どこどこで読んだことがある、とか、偉い方が言っていたとか、そうした得た知識を一旦横に置いておいて、自分が体験してどう感じたかで対象を捉えようとすることです。分節する前と言えるでしょう。「純粋」と言う言葉は、分節する前を強調する場合に使うと認識しています。ジェームスの「純粋経験」(2025.10.04 「純粋経験の・・・」)も分節する前の体験という意味で似ていますが、「純粋持続」は体験の時間の流れの中で感じる質的な変化を重視している点が違います。既に述べましたが、質的な変化を作る基はイマージュですが、そのイマージュも完全な過去の体験ではなく現在との関係の中で創られたものです。過去・現在・未来といったような分節した考えではないのです。この貫いている流れを言葉すると「持続」になります。残念なことに現在・過去・未来という分節した言葉をつかわないで説明することが難しいのです。現在の体験を起点にしてイマージュも創られ、その創られたイマージュと現在とで未来を創るということだと解釈しています。未来に対して予測ではない考えがあることを知ることはとても大切です。Aがある、それを使ってBを作る。それをまた利用してCを作る、だから未来はDができる。というだけでは、合理的ですばらしいですが、新しいモノが創造できません。「偶然」や「持続」はこれを破ることができます。
表紙の説明
概念を伝えるblogの場合は、表紙の絵をどうするのかが悩みです。今回「持続」ということで、これまで書いてきたブログの中から、流れが分かりやすい、人工生命とポテンシャルの画像をまとめました。生物的に見えるような映像を創ろうとしてはじめた人工生命ですが、オートポイエーシスの概念と結び付き、長期に考えてもいいと思えるテーマになりました。ポテンシャルとの出会いは人工生命に対する環境という位置付けで導入しました。これがつい最近では、動きから音を創ろうということに繋がっています。またポテンシャルは最短経路を得る計算負荷の少ない方法として注目していました。ポテンシャル場の中に線状のポイントで形成したゴムを入れると形が変形することに面白さを感じています。これは人工生命の影響が大きいと思います。ポテンシャルを動かすと形状が変化し、それが古代文字のように感じたことから、それを並べてみたりしました。さらに立体化すると、また別のイメージになることに驚きました。振り返ると、人工生命とポテンシャルが、これら一連の画像に「持続」しています。最初から計画があるわけではなく、創ったものを見て、しばらく時間が経ち偶然に思いつくことがあり、次を作ってみる。そういう過程で少しずつ作製している次第です。


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