梵我一如1

存在論

はじめに

Monogokoroでは哲学を工学に応用しようとしています。これまでも哲学の考えを参考に多くの映像を作製してきました。今回もその流れです。また映像を作製する過程で、哲学の理解も深まることを経験してきました。「梵我一如」はウパニシャッド哲学のメインの主張点で、ブラフマンとアートマンは同じだとする一元論です。まずこの思想について検討してみます。私の見解ですので正しくない可能性は大いにあります。その後プログラム例を示します。

アートマン

ウパニシャッド哲学の前に輪廻思想があったようです。輪廻思想を認めると、死んでも生まれ変わるわけですから、肉体は滅びて無くなりますが、肉体ではない何かしらが転生することになります。そうすると「魂」のような何かがある、と考えるのは自然な帰結です。アートマンはもともと「呼吸、生命」といった意味なので、他者から区別された私自身と関係が深いことになります。これが恐らく「アートマン」(「我」)の元でしょう。では何が転生していくのか、考えてみます。私とは何かという場合、私は工学や哲学や歴史に関心があり、結婚しており・・・と幾つも上げることができますが、それではそれが全てか、というと、いくら上げても「私とは」、を述べたことにはなりません。私は全体として私で、そして日々新たなことに関心ができ、できないことができるようになったり、できたことができなくなったりもします。常に変化している存在です。また、私は実体としては食物からか体を作っており、それは太陽や水・・・から作られていいるように、連綿とした持続する関係性の中にいます。ですので、言葉で分節した要素を集めても全体の私にはならず、私は全体としてしか定義できない存在です。このように重要な観点として全体性があります。そしてもう一つの観点は歴史性というか関わりです。例えは私は日本に生まれ、父母の影響を受け、また読んだ本の影響も受けているでしょう。その他、日本の風土の影響を受け、日本語や日本文化の連綿とした流れの影響を受けているでしょう。この連綿とした流れを一言でいうなら、ベルグソンの言う「持続」となるでしょう。「持続」の中にあるということは、ここまでが私というように、空間のように分けるようなことができないということです。連綿と流れる時間の全体に私はたゆたっています。まとめると、私は、全体としてしかとらえることができず分節したモノを集めても私になりません。常に変化する存在であり、全体を包摂する固定した領域は無く、持続の中にいます。しかしこうした私が影響を受けて得たものは、私が死ぬと無くなってしまいます。ではアートマンと言っている次の世代にも引き継がれるモノは何でしょうか。ここで述べた、様々なモノの影響を受けて自分を創っていくことや、言葉や風土の持続の中で自分を創っていくこと、常に変化しながら生きていること、これらを可能にする働きが常に引き継がれていると言っているのではないでしょうか。私個人の意思が輪廻しても引く継がれていくということでは無いはずです。もしもこれが引き継がれるとするなら、アートマン=ブラフマンは成立しません。

ブラフマン

ブラフマン(「梵」)は元々はサンスクリッド語で「言葉」やそこに宿る霊的な「力」を意味しているようです。言葉はモノ事を分節して現れるようにする働きがあります。インド哲学は有から世界は立ち上がります(無から生み出されたりはしない)。ここで有は一切を生み出すところで、一者、アハド等と呼ばれています。あらゆる言葉が入る集合があるとすると、それが対応するイメージです。しかし言葉は新しい言葉が生み出されていきます。このため、この言葉の集合を包摂する集合はありません。言葉について考えてみます。例えばそこに木があるとすると、全体として木なわけですが、収穫と言う点でみると、実であるリンゴが重要となり、木から分離して独立に実を指すリンゴという言葉が必要になります。山全体を見ているときは、リンゴの木と桜の木は分節していません。山として見ていますが、「食べる」、「景色を見る」と言う観点からは、桜とリンゴとは名前を付けて別のモノに分節します。名前の付け方は恣意的です。勝手につけています。しかしそうするとそれがあたかも独立して存在しているように扱うことができるようになります。もともとは、山であり木であり、更に遡ると一者であるわけです。何が存在していたのかというと、一者が存在しており、言葉により分節されて、個々が生まれてきます。また同じ言葉の中にも、ある時はリンゴを食べる側面で捉えるし、ある時は描く側面で捉えます。またある時はリンゴについている葉っぱも含めて飾りの対象として捉えます。また皮をむいて切ったものもリンゴというし・・・、というようにそれは非常に多面的です。言葉で独立させたからといって、それが一つの意味に収束するわけではありません。。それを含む状況と文脈とに依存します。そして、状況や文脈と言葉の組み合わせによって、新しく何かが作られていきます。例えばアップルパイだとか、リンゴアメ等です。お祭りであるとか、状況や文脈の影響も受けます。これと同様に、規則や法則もまた言葉の組み合わせによって創られていきます。まとめると、あらゆる個別の言葉を含んだ全体を言葉というと、言葉は一者と言えるでしょう。しかし、言葉は常に生成されるので、包摂することはできません。そしてその言葉を使って、人は法則を創り何かを組み立て、何かを創り出します。従って、言葉は全てを生み出す元であると言えます。このように考えると初期に「言葉」を意味していたブラフマンが、創造主と言われていることも納得がいきます。創造主ですから、宇宙の原理だとか、法則だとか言うこともできるでしょう。言葉が全てを分節し、その組みあわせから法則を生み出します。分節し法則化することを、「働き」と呼ぶなら、全てを生み出す働き・法則がブラフマンと呼べるでしょう。

梵我一如

それでは、梵我一如はどういう意味が考察します。上に二つの節を読んでいただいたなら、似ている感じがしたと思います。「我」と「梵」が一致している箇所は、個々に分節して説明したのでは言い表すことができない、全体でしか述べることができない存在であること。そして、その全体も包摂した何かがあるわけではないこと。引継ぎ持続して変化し生み出す働きがあること、これらは両者に共通しています。こうした同じ「働き」を共有しているという観点で一致していることを「梵我一如」と言っているのではないかと解釈しています。ただし実際は体験で会得する「無記」でしょうから、ここで述べたことはほんの一部でしかないでしょう。

諸行無常との違い

「梵我一如」は「アートマンとブラフマンとは同じである」として「我」の存在を肯定しています。一方、仏教はこれを否定し「諸法無我」、つまり固定した「我」は無いとしています。「梵我一如」も、「持続の中にある我は分節できない」ので、独立して存在する「我」を否定していると思います。つまり、どちらも個としての「我」が独立して存在するという考えを超えようとしている点で響きあっています。それでは何が違っているのでしょうか。私見ですが、梵我一如の「我」は「梵」でもありますから、働き・法則があると言っています。しかし「諸法無我」はそうした法則も否定しているのだと思います。その時の関係性の中で立ち上がるというのが諸法無我の「我」です。「諸法無我」は、より実存的で偶然性を認めているように思います。梵我一如は「働き」・「法則」が在るということですので、偶然になるというよりも、そこに「理」があると考えているのではないでしょうか。

梵我一如の表現

今回梵我一如でblogを書こうとした時、映像をどうするか悩みました。オブジェクトとして独立して動いているように見える存在が、実は背後の世界と同じであるという映像を作ろうと思いました。オブジェクトが「アートマン」で背後にある世界が「ブラフマン」として実は同じだというストーリです。プログラムの場合、同じ法則で動いているという点は示しやすいと思います。題材として、2025.11.30の「衝突問題の基本」を基にし、そこからもう一つの「我」の世界を作りました。それでは映像を見てください。

左側が「我」を表しており、左の映像だけを見せると独立に動いているように思えるでしょう。動いた痕跡が描かれ、次第に痕跡が消えていきます。右側の映像が「梵」を表しています。砂粒が広がる世界です。マウスを動かすと痕跡として残り、そして消えていきます。「衝突問題の基本」で記載したのと同じです。この砂粒が除けられ、そして閉じるという部分を、オブジェクトとして表したのが左側です。ポイントはマウスの動きを描いただけでなく、砂が閉じていくのと連動して、オフジェクトが無くなっていく点です。マウスの動きを別々の2つの世界で表したのであれば、表現に仕方の違いですが、砂の世界で閉じていくことが、オブジェクトの世界では減少することに対応していることが、砂の世界がオブジェクトの世界と関連していることを示しています。オブジェクトである「我」は実は砂の世界である「梵」であった、という意味です。オブジェクトの立体的な映像は、砂の世界の砂を除いた部分に繋がっていると言えます。つまり2つの世界は「持続」しているのです。ですから、どこまでがオブジェクトだとはいいがたい関係になっています。つまり砂を除いた部分を含めるということもできますし、いやいや、右側の砂の映像全体を含めてオブジェクトだと言うことも可能です。

「我」のオブジェクトの作製方法

blog「衝突問題の基礎」の中に節である「元の砂から復元がある砂を引いた場合」があります。そこの映像から、blurとthreshold TOPにより、砂を除いた部分を白として取り出します。この時、砂が元に戻る際に、白の部分の輪郭ががたつきます。これがそのまま立体になったオブジェクトに反映されてしまいます。これを防ぐために、cache TOPを使って5Hzでホールドしています。これはばらつきを抑えるコツです。砂を除いた部分を白にした映像をtrace SOPで3D空間に移します。extrude TOPで高さを与え立体化します。これをgrid SOPに重ねます。この重ねる方法にray SOPを使います。後はgeo COPMとrender TOPで2次元化しました。

まとめ

2つの世界があって、実はそれは関連していて同じ法則で動いているという考えは、仮想世界を作る際に非常に重要な考えです。Monogokoroでは、ハイデガーの絵画論にでてくる「隠されている」という概念をよく使っています(例えば、2025.07.25「暗黙知の次元2」) 。オブジェクトの動きだけを見ている場合は、砂の映像は隠された存在です。この場合、オブジェクトの背後にこれを動かす原理である砂の場があり、これと一体であると解釈できます。これは「持続」という観点からいうと、オブジェクトと砂の世界は続いていると解釈できます。今回、プログラムを作製しblogを書く過程で、「梵我一如」が、ベルグソンの「持続」やハイデガーの「隠されたモノ」、そして「諸法無我」との関連があることに気づきました。このように、プログラムを作製すること自体も哲学的な考えを深めるのに役立ちます。

補足:もう一つ関連があると思った哲学に、マルクス・ガブリエルの新実在論があります。この哲学には「意味の場」という考えがあります。これはモノ事が特定の文脈や視点において意味を持つ領域を指します。ですので無数の意味の場があります。この意味の場で構成されたのが世界です。意味の場は、言葉が生まれたり、新しい文脈や解釈によって新しく発生するので、やはり、包摂する世界はありません。定まった外枠がないこと、これを「世界は存在しない」、と言っているようです。これまで説明してきたように「梵我一如」と似たところがあります。ウパニシャッド哲学は二千数百年前の哲学ですが、今もインスピレーションの源泉です。

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