はじめに
ゲシュタルトはドイツ語で「形」「構造」「まとまり」を意味しています。心理学では物事を知覚するとき、個々の要素でできているわけですが、それらをひとまとまりの形や構造として捉えることを指しています。「全体は部分の総和に勝る」これが代表的な言葉です。部分に分解すると意味を失う現象をゲシュタルトと言います。Monogokoroでは、2025.05.11のblog「プレグナンツとベイズ推定、その応用について」でゲシュタルトの中心的な現象であるプレグナンツを取り上げています。プレグナンツは、対象を一塊のグループとして捉える傾向をいいます。これまで私のゲシュタルトのイメージは、図形や空間配置、画像・映像、立体物、文字等と結びついておりました。しかし、先回「映像による音生成4 風景音とリアリティの考察」の中で、「恐らく脳は感覚を統合し、意味ある世界を作ろうとする機能があるのでしょう。寧ろ意味ある世界を作るために、統合しているのかもしれません。」と書きました。それぞれの感覚が統合されることで「今ここ」に意味が現れるのです。文章を書いていて、「これはゲシュタルトだ」と気づいたのです。感覚の統合がゲシュタルトであると気づくと、これまでblogで書いてきた幾つかに関連があることが分かり、それらを読み返しました。今回それらの知見をまとめておこうと思います。
(「感覚統合」ー「ゲシュタルト」)-「環世界」
「環世界」については何度も登場させていますが、主として述べているのは2025.07.18のblog「「環世界」と「暗黙知の次元1」」です。ここで、「生物の周りには環境がありますが、客観的にそれを観ていません。生物にとって大切なのは、環境の中で自分の関係のある、意味あるものを選び出して自分の世界を作っている」、と書きました。環世界は意味の世界です。そして人は人の「環世界」(意味の世界)の中にいます。空が青いのは「波長」でなく、人にとって、外出できるとか、傘の準備はいらない、洗濯物が干せる、とか意味を持っています。ただの石も、「鉱物の複合体」ではなく、何かを割れる、重しにできる等の、意味を持っています。パソコンや机は勿論意味があります。広々しているのも、何かを置ける、走れるとか、何らかの意味を持って受け止めています。また、海の近くにいくと、ここまでは入っても安全だが、これ以上はやめとこう、とか安全・安心の意味も立ち上がります。これらの多くは無意識に働いています。「環世界」は無意識のベースを支えています。そしてこの「意味の世界」は感覚の統合が成立して初めて成立する世界です。視覚・触覚・聴覚などがバラバラでは、世界は「意味」を持てません。統合された世界はゲシュタルトとして立ちあがります。そしてそのまとまりが、何ができるかと言う行為可能性を誘起します。
(「感覚統合」ー「ゲシュタルト」)-「暗黙知の次元」
「暗黙知の次元」についても、同じく「「環世界」と「暗黙知の次元1」」で述べています。この中で、有名な真っ暗な洞窟に探り棒を持って入る例を示しています。その部分を採録すると、「探り棒で探りながら前進します。最初、探り棒から得られる信号の意味を理解できず手への衝撃として感じます。しかし次第にそれが手の延長となり、棒の先端が何を触っているかの感覚が伝わってくるようになります。探り棒は身体化されたのです。意味不明であった感覚が有意味な感覚となり、固いモノがあるとか、柔らかいモノがあるとか、大きさはどれぐらいで、形はこんな感じ、といったような意味に変わります。」と書いています。この例では最初意味がとれない感覚が、意識して探っていると、「危険」「距離」「大きさ」「音の反響」等として、一つ一つ意識に上がり、そして統合され、何々があると感じるようになります。「環世界」では無意識に立ち上がってきましたが、これは意識的に立ち上がってくる例です。この意識の底にも、(「感覚統合」ー「ゲシュタルト」)があります。
先回のblog「映像による音生成4 風景音とリアリティの考察」で、サウンドランドスケープを紹介しました。これは地域に関係する音をその場所に近付くにつれて徐々に鳴らす装置でした。その場所と土地柄を音で結びつける機能を持ち、その場所を走行することで、その音が意味を帯びるようにする」、と述べました。この場合も、普段は何気ない音であったものが、場所と結びついて意味に変わることで、場所と音で意識化され意味を帯びるゲシュタルトです。「暗黙知の次元」とは、どちらも関係性を総合して意識化する点で似ています。
ゲシュタルトは「環世界」と「意識化」をつなぐ
私の主張点は、「(「感覚統合」ー「ゲシュタルト」)は、環世界(無意識の意味の世界)と、意識化される意味の世界の両方を支える基盤である」、ということです。そして「全体は部分の総和に勝る」ということから、この現象は非線形だということです。
「感覚統合」即ち「ゲシュタルト」の性質がなければ、世界は「まとまり」を持たないため、意味も行為可能性も生じません。そして非線形現象ですから、意味も行為可能性も、予測不可能性が入ります。つまり意味の捉え方や行為可能性もその時その時で同じではありません。これはいかにも人間的です。
先回「映像による音生成4 風景音とリアリティの考察」を書いていて、「ゲシュタルト」がこんなにも本質的であることに気付き驚いたのです。
私は普段インターラクション装置を扱うことが多く、画像と音、さらに触覚・力覚と情報の統合という意味でマルチモーダルという言葉をよく使います。しかしもっと、感覚統合には今回のblogで述べた深さがあるようです。
表紙について
今回の表紙はblenderのGrease Pencilを練習していた時の絵です。ポストカードを作ろうとしておりました。最近はまったく使っておらず、すっかり忘れてしまいました。近くに丘の公園があり、夜はこんな感じかな、と空想して描きました。中央の木は実際にはなく、住んでいるマンションの庭の木を入れました。ごちゃごちゃしておりますが、様々なオブジェクトを配置しており、統合して「夜の公園」を意味しています。夜の暗いシーンでありますが、明るい感じの木にして、「一人で黙々とプログラムしてますが、まあ明るくやってます」、的な近況報告を込めようとした気が致します。これも意味です。ゲシュタルトと無理やり関係付けて表紙とすることにしました。


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