先回初期の人工生命L-systemについて説明しました。私はL-systemを使う中で一つ気づいたことがあったのです。まあ、ベルグソンが何十年も前に述べていたことであったのですが、その時は感激しました。今日はそれを紹介いたします。人の性質に強く関係することがらです。
私はアンリ・ベルグソンという方を尊敬しております。この方の思想は工学的に多く応用することができます。今回はその一つを紹介することになります。このブログではベルグソンには何度か登場願うつもりです。今回は「量と質の変換」について話します。
人が見ることができる電磁波を可視光線といい、405THz~790THzを指します。人はこの狭い範囲しか見ることができません。低い周波数が赤色で高い周波数が紫色です。哲学ではよくリンゴの話がでてきますので、それにならってリンゴを例に話しましょう。リンゴが赤く見えるのは、リンゴが赤の光を相対的に多く反射するからです。400THz-480THz程度の反射した光が相対的に多く目に届くからです。目に届くのは周波数です。しかし人はこの周波数を赤と感じるのです。この周波数が「量」、これは測定可能な存在です。そして、「赤」と感じるのが「質」です。光だけでなく、触った感じのざらざら、すべすべ等も同様です。どれだけで凸凹かは測定できる値なので量です。しかし人が感じるのは、ざらざらとか、すべすべといったように「質」なのです。この量から質への変換は人側がしているのです。400THz-480THz付近の光を受けると反応する細胞があり、その結果を受けて、赤だと思うのです。人は光そのものではなく、質に変換された後を感じているのです。人それぞれ、光を受けて反応する細胞に違いがあるし、それをどの程度の赤と感じるのかは違っています。それは身体の性能という意味でも違っていますし、歴史的・文化的背景によって、環境によっても違います。赤でも真っ赤と橙色の赤との間を細かく分ける文化に暮らしている人、そうでない人との感じ方は違うのです。このように、受けるのは量なわけですが、それを感じるのは質なわけです。そしてその質の感じ方は人それぞれなのです。光の話で説明しましたが感覚はすべからくそうしたもので、上に挙げた触覚もそうだし、痛みもそうです。ですから、他人の痛みは体験から想像はできますが、実際にはわかりません。自分が感じている赤と他人が感じている赤が同じかどうかもわかりません。現在ではこれは「クオリア問題」と呼んでいます。周波数が人のセンサーによって電気信号に変換されるまでは追っていけるようですが、電気信号が感覚(質)に変換するところが分かっていません。哲学では「他者」という言葉がよくでてきます。これは理解できない存在のことです。この意味の中の一つの要素は、この感覚は人それぞれで、他人の感覚を正確に知ることができない。ということを含んでいます。
もう一つ関連して相対性について述べます。生き物には人の見える範囲である可視光以外の電磁波を見る(感じる)ことができる生き物がいます。またもっと狭い範囲の周波数しか見えない生き物もいます。そうするとこの世界の見え方は違っているでしょう。また歴史的・文化的背景によっても見えかたは変わるので、同じ種でも環境によって見え方は違うかもしれません。そうすると同じリンゴでも、生き物間で違って見えているし、人どうしでも違ってみえているのです。それでは本当のリンゴって何、モノそのモノって何、ありのまま、とは何のこと、ということになります。リンゴがそこの在るのは事実ですが、同じリンゴに見えているわけではないのです。モノそのモノには近づけないのです。
もう一つ相対的な話を加えておきます。分解能の話です。テレビ画面を縦横にわけて、その一つをその中の色の平均で表すことにすると、100×100に粗さでみた映像、500×500の映像、1000×1000の映像、としていくと、次第に明確に見えてきます。人間の目の分解能がありますので、上げれば上げるほとはっきりと見えるというわけではありません。どの分解能で見るのかということで、モノの見えかたが変わります。人がつるつるで反射していると思ったモノも、その表面を顕微鏡でみると、隙間が空いています。そしてもっと拡大してみると、隙間ばかりの所があったりします。つまり、生物がどの程度の分解能でモノを見ているかで、見え方も変わるというわけです。人の間でも厳密には同じではないでしょう。そうすると、もし人より何倍も高分解能で見える宇宙人がリンゴを見た時、人はつるつるだとして感じたリンゴも、宇宙人にとっては凸凹に、あるいはスカスカに見えることになります。それじゃ、リンゴの本当の表面の姿はどんな姿なのか、それは分解能しだいで違うわけですから、本当の姿はわからないのです。これも、モノそのモノには近づけないということです。
ベルグソンは時間についても同様な考えを展開します。彼の言葉で「私が一杯の砂糖水を準備する場合、何をしようと、私は砂糖が溶けるのを待たなければならない」というのがあります。これについて考えてみましょう。私の命が砂糖水が溶けるぐらいの短さであったとすると、砂糖水は大変ゆっくりととけていくように思うでしょう。また、私の命が極めて長いなら、砂糖水が溶ける時間は一瞬の出来事でしょう。このように砂糖水が溶けるのを感じる時間は相対的なのです。また私は急いでいる時は、入れた角砂糖が溶けるのをゆっくりとまつことができず、スプーンでつついてくずしてしまうかもしれません。また、私が物思いにふけっている時は、角砂糖がくずれていくのをゆっくりとみているかもしれません。このように私が感じる時間は相対的なのです。これは時間の基準は外にあるのではなく、人側に在るということを示しているのです。この例でもわかるように、時間は短くも長くもなるのです。
日本人にはこの相対的な時間感覚というのはなじみがあるのではないでしょうか、例えば、
見ればげに
心もそれになりぞ行く
かれのの薄(すすき)
有明の月
西行
うらを見せ
おもてを見せて
散るもみぢ
良寛
ゆっくりとした時間の中におられるのがわかると思います。
ベルグソン以前は、モノと人とを分けて考えていました。モノと精神といった感じですね。そして客観的にモノが在るとか、一定に時間が流れている、ととらえていたということです。彼は基準が外にあると思っていません、見る側見られる側というように主客を明確にわけて考える見方を否定した方なのです。これはインターラクション、つまり人とモノとの相互作用によって感情を引き出すことですが、これと大変相性の良い考えなのです。同時代にメルロー・ポンティがいます。かれは身体性に着目した方です。感覚を通じて人は感じているのですから、モノが独立にあってそれをそのまま感じているわけではないことを指摘しました。科学技術は今も客観的などと言っていますが、そんなモノは無いのです。工学の立場からは、それぞれの考えで、役立つ便利なモノができればよいわけですが、しかし客観的に便利なモノを求めるだけでは精神的に疲弊してしまうのです。ですのでベルグソンやメルローポンティ―等の考えを、工学的に応用することが大切だと思います。また人とモノとの間に生じる関係に。アフォーダンスがあります。これも大変重要な概念でそのうち話したいと思います。
次にベルグソンの「量と質の変換」の話から考えたモデルを紹介致します。ラックアンドピニオンモデルです。次の図がそれです。
イメージとしては触感がぴったりときます。ラックというのは基台のことでピニオンは小さい歯車のことです。ピニオンの周波数(周期)がその人の固有の周波数で、ここでいう指紋(あるいは指の圧力センサーの分布)の空間周波数です。ようするに指のことです。これに対して、テーブルが非常になだらかに変化しているときが一番上の図です。この場合、ピニオン(指)はラックに従って上下する。この時、人は緩やかな変化と感じます。まん中はテーブルに物質がついており、それが指の空間周波数とあった場合です。少しづれている場合はカタガタしだし、ピッタリはまると、力強くかみ合ったことを感じます。これが凸凹している、嚙み合ったという感覚でしょう。そして、下の図はラックの周波数がピニオンの周波数よりはるかに高い場合です。この時ピニオンはあたかも凸凹がないように動く、この感覚がつるつるというわけです。光に場合の説明に使うなら次のようになります。特定の周波数を感じるピニオン(目のセンサー)があり、ゆっくりとしたラック(低い周波数の光、例えば赤)にはそれに適合するピニオンがあり、それがうまく合致すると赤ぽく感じる、といったことです。このようなイメージで凸凹やつるつるなら空間周波数(量)、光なら周波数(量)を人側のセンサー(ピニオン)をつかって質(凸凹やつるつる、赤や青)に変換するのです。
では次に私がプログラムを作製していて気付いた質と量の変換について紹介いたします。下の一つ目の動画はL-sysytemで作製した植物が10×10にアレイに配置していてゆるやかに動いている図です。明らかに植物が揺れていると見えるでしょう。次に2つめの動画を見てください。これは同じ植物を50×50のアレイに配置した場合です。植物とは思えないのではないでしょうか、布がゆらいでいる、あるいは動物の皮膚、のように思えるのではないでしょうか。これは単に植物の量を変えただけです。しかし人には植物と動物の皮膚のようにに質の違いとして見えるのです。これはインターラクションに応用がききます。例えば植物かと思って触ろうとすると、動物の皮膚に変わるとかです。
さて次にL-systemとConwayを合わせた場合の例を紹介します。「初期の人工生命Conwayの活用について」の記事の中で、映像から音楽を作製する自動作曲プログラムを作製していると述べました。私の作り方は映像変化から曲を作るので、今回の一つ目の動画のように、緩やかな動きでは曲が作りにくいのです。そこで活用するのがConwayで、以前のblogの動画のように、輪郭線にそって人工生命が発生し次の発生タイミングまで人工生命が広がる動きをします。この動きによって、もともと緩やかな映像変化であっても、より大きな映像変化にできるのです。ですから、Conwayをいれると、変化の少ない映像をもとにしていても曲が作れるようになります。上の2つの動画には曲をつけていますが、これらはConwayを活用した曲です。今回これらの曲を作っている時に気が付いたことがありました。背景を黒にした時のL-sysytemで作った画像を示し、その次にその時のConwayの画像を示します。
(Conwayの光がかならずしも植物の上に対応していないのは、曲作製に使う映像範囲が上の図では違っているからです。Conwayが示している映像範囲で曲を作っています)
次に背景を灰色にした場合の図を示します。
Conwayの画像で光の数が増えていることがわかります。
さらに、背景を白にした時に映像を示します。
Conwayでできる光はもっと明るくにぎやかになっています。
これはどういうことを意味するのかというと、背景の色を黒から白の間でかえると(色がついている場合も含む)Conwayの数が多くなるということですので、背景の色を変えると、映像の変化量を変えれるということです。映像の変化量で曲を作っているので、結局曲が変わるということです。自動作曲は映像データを曲という音データに変換します。これは量を別の量に変換したことになります。そして人はその音データの量を質に変換して感覚に変えています。さて今回の気づきが良い曲につながるとよろしいのですが、今回blogの最初のL-systemの動画の映像に、背景映像の色をコントロールした曲をアップ致します。聞いてください。曲名はColor musicです。上の二つの動画の音楽よりも曲らしくなっていると思います。
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