はじめに
アメリカとイスラエルがイランを攻撃したニュースを聞いて、わかりあえなさを感じたしだいです。
異なる都市
2つの都市を描いてみました。ここに暮らしている人々は異なる歴史的・文化的背景を持っているとします。互いに面白いと思える時があるのでしょうか。

これは、blenderのジオメトリーノードの練習として作製した都市の画像です。「https://www.youtube.com/watch?v=MXz5JL9bqQo」を真似ています。

この画像は2025.09.06のblog「線形操作で生じる予測不可能性」で示したTouchDesignerで作製した画像を、blenderのディスプレイスメントモディファイアの使って作製した画像です。「線形操作で生じる予測不可能性」のblogも是非参考にしてください。TouchDesignerでは立体を作製し、それを真下から見ることで平面の画像を得ました。そしてblenderで平面になったその画像をディスプレイスメントで上側に持ち上げて作製しました。TouchDesignerの画像とblender後の画像も随分と印象が違います。
都市の最初の画像が機械的・理性的な印象に対して、2番目の画像は有機的な印象です。これら異なる都市の人達は互いに分かり合えるのでしょうか?そう思いました。
漸近
随分前に、中国の殷周時代の青銅器の展示を見る機会がありました。例えば次のような青銅器です。

出典「https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/212143/」
こうした青銅器を見ていると、とても同じ人間とは思えない人達のように思えます。しかし器の底に文字が書かれていて、その文字の解説には、「戦いで活躍したことを王様に褒められたことを記念して作った」といったような作製の由来が書かれていました。これを読むと、なんとなく近しさも感じたものです。時空を超えて繋がる感覚もあるのです。
まったく違う異文化を持つ存在に対して、過去多くの考察がされてきました。ハンチントンの「文明の衝突」はその代表でしょう。この本では、文明観の違いが無視できない現実であり、それにどう向き合うかが重要だと継承をならしています。その本が出版された後、ニューヨークのワールドトレードセンターに旅客機が突入する9.11事件が起こり衝撃的でした。アメリカは「対テロ戦争」を宣言し、アフガニスタンに軍事介入、しばらくたってから首謀者であったビン・ラディンを特殊部隊が殺害しました。厳しい現実を突きつけました。
お互い高度な文明を築ける水準に達しているような人達では、相手のスタイルを真似ることはできます。しかしそれはシステムとして真似ることはできますが、「埋め込まれた文脈」へ達することはできません。「埋め込まれた文脈」というのは、歴史や文明を語る際にたまに出てくる言葉です。言葉が「翻訳」できて、システムは真似できても、人々の価値観や行動様式、無意識の前提として社会に染み込んでいる文化的・歴史的な背景まで理解できない、ことを指しています。例えば、日本も資本主義ですが、マックス・ウエバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、プロテスタントの禁欲的な倫理観が、資本主義の「精神」を形づくったと述べています。つまり、資本主義は宗教的・文化的な背景と深く結びついていて、単に制度を導入するだけではその「精神」までは移植できないというわけです。こうした意見は正しいでしょう。結局は理解できないままの「他者」なわけですが、理解するために相当な努力がなされているのも事実です。
まずは相手の文化や歴史を学び、理解しようとする態度です。例えば、ルース・ベネディクトの「菊と刀」があります。これは第2次世界大戦の際に、アメリカ軍が敵である日本を知る必要があることから日本人について研究させたモノです。彼女は、日本人の行動や価値観の背後にある「恥の文化」や「義理・人情」といった、目に見えないけれど強く作用する「埋め込まれた文脈」を読み解こうとしました。
偶然性・連帯
現在では「偶然性」が肯定されてきています。どこの場所でどういった環境で生まれるかは偶然で、そこの言葉や歴史性を背景に育つのは当然です。2025.08.09のblog「偶然性」でリチャード・ローティに触れています。そこで書いた文章を採録致します。「彼は「哲学と自然の鏡」で、「歴史主義」を提唱しています。世界は永遠不変の真理や究極の本質などはなく、それはそのときどきの言葉によって作られると主張しました。そして言葉は歴史的な産物で偶然的なものです。その言葉によって人は思考するので自己も偶然的です。自己は個々の具体的な経験を通じて具体的に形成されていき、その具体的な経験は偶然に起こりますから、自己は偶然の産物なのです。さらにローティは「偶然性・アイロニー・連帯」で偶然性を使って価値の転倒を試みます。これまで人間は何か共通の本質なり価値観を共有しているから分かり合えると説明されてきました。彼は偶然の産物だから、お互いを認め合えるといいます。つまりあなたは優れていて私は劣っているという関係ではない根拠に偶然性を持ってきます。だから互いに認め合って契約により連帯ができる、というように転換します。この考えは絶対精神が自己展開していく過程が歴史だとするヘーゲルとまったく違った歴史感だけでなく、共通価値によって分かり合うというのでもなく、新しい連帯の仕方です。話は大きくなってしまいますが、実際、自由・平等・博愛といった共通の概念で世界はまとまっていません。ローティに対して特に共感するのは、そういった概念で連帯するのではなく、「痛いこと、人と辱めることは止めよう」といった、だれもが嫌だと感じる具体的な行為で連帯を呼び掛けている点です。プラグマティズムがよく現れていると思います。」 彼は、私たちが持っている信念や価値観、言語、制度、そしてアイデンティティまでもが、絶対的なものではなく、歴史的・文化的な偶然の産物だと考えています。どちらが正しい・間違っているという話ではなく、ただ「そうなった」という偶然の積み重ねの結果です。地理、気候、技術、宗教、戦争、交易…あらゆる要素が絡み合って、今の姿がある。という態度です。
この「偶然性を認める」という態度は、「自分の価値観が普遍的ではない」と認めることでもあります。そうすると、他者の文脈に対しても、「なぜそうなのか?」ではなく、「そうであることをどう受けとめるか?」という問い方ができるようになるからです。違いを「どう受けとめるか」という問こそが重要です。違いがあること自体を面白がるような態度がとれたら、きっと新しい関係性が生まれでしょう。「真理」は一つであるとか、「正しい/正しくない」といったような、過去学んできたような態度は間違っていたように思います。こんなことが言えるは、戦争や紛争と離れたところからいるからだと思います。今回のように「異なる都市に住む人はわかりあえるのか?」そいったことを問うことは、アート的な試みです。この二つの絵はどちらも私が描いたモノで、私の中では分裂しているわけではありません。共存しています。

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