はじめに
Monogokoroでは工学と哲学とを結びつけた話題を多く扱っています。哲学ではしばしば「純粋」という言葉が使われる場合があります。有名なところでは、「純粋理性」、「純粋経験」、「純粋持続」、「純粋なシミュラークル」と言ったようにです。それぞれ異なる概念ですが、「純粋」と言う言葉のニュアンスには、「何かが入ってくる、分節する、統合する、加わる、変化する、そうしたことの前の状態、あるいは、本来的な状態、拒絶している状態、距離感として離れている」、そんな何とも言えない共通点を感じます。哲学は基本的に具体例をあまり述べません、抽象的・観念的な説明が多く分かりにくくしています。一方工学は常に具体的です。具体的な場合は、些末なところでは、概念から逸脱する場合もあるのですが、かまわず使い、実用性を重視します。ここではできるだけ具体例として作製した画像を使い、「純粋」と言うニュアンスを掴もうと試みました。
純粋理性
純粋理性はカントが述べた言葉です。モノがそこにあってそのままを人が見ている、と言う認識がごく自然な見方ですが、カントは「そうではない」と言いました。人は認識の枠組みを持っていて、それを通してモノを見ていると述べました。その枠組みが先天的に人に与えらえたモノである場合、ア・プリオリと呼んでいます。そうすると、「純粋理性」は、経験に先立って働く理性の能力のことです。経験に先立つア・プリオリとして「空間」と「時間」を述べています。「空間」の具体的な例としては、「机の上に本がある」とか、「木の後ろに家がある」とかいう位置関係が分かるア・プリオリです。また時間については、「前に起こった」「今起きている」「これから起きるだろう」といって順番を捉えることができる、といったことが時間に関するア・プリオリです。これらは経験によって得られるのではなく、経験を可能にする前提です。カントは「空間や時間が実在する」といったことを論じているわけではありません。あくまで人の認識のことを述べています。
純粋理性の具体的な例として、「幾何学」を挙げています。空間認識のア・プリオリから理性を通じて導ける分野という捉え方です。現代では非ユークリッド空間もあり、これは理論と実験によって証明されるわけで、幾何学も理性だけとは言い難い状態になっています。また、現在では日常的な経験には反するが、理性では認められることが、普通に使う場合も多々あります。例えば直行関数です。代表的なのがフーリエ級数展開です。イメージとしては3次元空間以上を考えることはできませんが、理性としては直行関数のn次元空間を扱います。また粒子であり波であるとする量子力学もイメージできませんが、この概念を理性的に扱いデバイスを開発します。複素数も実体としては捉えられませんが、電気・電子回路はこれなしでは成立しません。このようなことは勿論カントの時代にはなかったことです。しかし、これらが経験を排し理性によって導かれたかというとそうではありません。実験によって確認されていくことで事実と認められているのです。ですので経験的でもあります。実験によって構築された理性の産物と言えます。ですので非ユークリッド幾何やn次元空間、量子力学、複素数といったことは純粋理性ではありません。しかし、日常的な経験では達することができないが、理性によって理解することができるという内容を、現代風に解釈して「純粋理性」と言うのは、合うように思います。
「純粋理性」の「純粋」と言う言葉は、経験に先立つ、経験が入ってきていない、と言った意味で使われています。下の図は2025.12.25のblog「西洋存在論の根源」で示した図形です。三角形を幾何学的に配置し回転させて作製した図形で、「純粋理性」の例になっていると思います。

理性を声高に訴える時代はとうの昔に過去になっています。カントは近代の金字塔で偉大です。近代と現代を対比するのに大変役立ちます。現代では幾何的な見方でも、2025.09.06のblog「線形操作で生じる予測不可能性」で示したような偶然性・予測不可能性が重要です。理性的・合理的に構築することから、偶然性や予測不可能性を使って創発する時代に入っています。
純粋経験
ジェームズの「純粋経験」については、2925.10.04のblog「純粋経験のオートポイエーシス的解釈」で述べておりますので、全体的な説明は省略し、「純粋」について考えてみます。このblogで「彼の言う純粋経験は経験した直後でまだそれが言葉によって切り取られる前のことをさしています。従って判断や概念化も行われていない段階、意識化されて価値の有無が発生する前の段階です。このため主客分離されていません。」と書いています。つまりここでの「純粋」は、言葉で分節されていない、概念化する前の状態を述べています。それは「始まりの根源」のことです。Monogokoroで述べている内容は、この純粋経験は頻繁に体験していることだと思います。TouchDesignerやblender, MAXで作っていると、「何だこれは」と言う絵や音に頻繁に出会います。結局これが面白い所です。これをきっかけとして、こんな事が示せれるかも、こんな展開ができそうだ、等と思うことになります。また分節しては意味を失うが、全体を捉えると意味がある、ゲシュタルトを感じる場合もあります。例えば、今書いている「純粋」の考察は、後日書こうとしているblogの布石で、それを書く前に書いておいたほうがいいと思ったからです。そして後日書こうとしている内容は、「純粋経験」や次の節で述べる「純粋持続」に関係しています。それらは先の「人の特性の考察」や「映像による音生成」を書いていた時に思ったことです。そこでプログラムで描いた映像や音楽を見て・聴いて、「オー」とか「アー」とか感じ、これが展開されていっているのです。「オー」とか「アー」とか思った体験が「始まりの根源」です。興味があるのは、「純粋経験」はしばしば「直観」と結びついているように思えます。どう結びついているかはまだ分かりません。次に純粋経験の具体的な例を紹介します。下の2つは、2025.09.27のblog「コンピューターに宿る非線形英2「映像の相転移」」に使った画像です。blenderのノイズテクスチャー+ボロノイテクスチャー+ノイズテクスチャ及びディスプレイスメントの構成では、思いもよらない映像ができます。なんだこれはという感じで、分節される前の純粋経験を体験します。これが「始まりの根源」に相当します。

これが何の絵か分節しないままに、パラメータを動かしてみたのが次の映像です。パラメータを変えるとどう振る舞いが変わるかを注意深く行っています。この状態は私を含めてフィードバックが成立している状態で主客未分的です。

パラメータ調整していると、次第に都市と道を空想するようになりました。これが分節したということです。そこで、AIに島の所を都市にして、都市を繋いでいる所を道、あるいは城壁にして描いてもらったのが次の画像でした(2025.10.08のblog「人の痕跡」)。

この一連の流れは、純粋経験が分節して行き、意味を持つようになる例です。
一方で純粋経験が統合され全体として意味を持つようになる例に、次を挙げることができます。2025.07.18のblog「「環世界」と「暗黙知の次元1」」の「暗黙知の次元を考える」の節で挙げた、真っ暗な洞窟に探り棒を手にして入っていく例がそれです。最初は「何かがある」という感覚だけです。これは分節される前の純粋経験的です。音の反響、杖の手応え、空気の湿り気…そういった感覚がバラバラに流れ込んでくるが、それらがまだ「意味」を持っていません。しかし次第にそれらの感覚が統合され、「あ、これは岩だ」「ここは水たまりだ」と、まとまりのある知覚、即ちゲシュタルトとして立ち上がってきます。個々の感覚を意識的に分析するのではなく、全体として感じ取ることで、世界が立ち上がってきます。ゲシュタルトについては、2026.01.03のblog「ゲシュタルト:感覚統合」でも扱っています。
このように、「始まりの根源」である「純粋経験」には、分節する方向とゲシュタルトとして立ち上がってくる方向があります。
純粋持続

この絵は先回のblogの表紙の絵です。最初からベルグソンの「持続」を表現しようとしたものです。秋の御神神社があり、次に冬の御神神社があります。これは実際には秋から冬の時間があるわけですが、秋の風景を知っているから、冬の風景にも感じることがある。あるいは秋を思い出して冬を見ているから、持続していると解釈します。「持続」は、音楽の様に実際の時間が連続している必要は必ずしもありません。次に鹿がやってきて、一年後に鹿が子供を連れてやってきます。事実としては、鹿が一頭いて、次の年には、大人と子供の鹿がいた、ということですが、これを同じ鹿だと捉え、小鹿をその子供だと捉えることで、特別な感情が生じます。この感情の変化に特に注目した場合、「純粋持続」と言えます。それでは、「純粋」とは何かについて考察してみましょう。「純粋持続」は、論理的に区切られた時間ではなく、質的に変化しながら連続する内的な時間の流れです。だから実際の時間の連続性がなくても、心の中で「秋から冬」「一頭の鹿から親子の鹿」といった流れが一つの生きた体験として感じられるなら、純粋持続になります。
人間が「物がある」と認識するには、「物が一秒前にもあった」「物が十秒前にもあった」「物が一分前にもあった」・・・というように、物が「あり続ける」必要があります。この記憶による「持続」を持っています。それを自動的に無意識的に想起するから、「物がある」と感じます。これと4枚の絵の場合と比較すると、内在的で質的な変化がある場合を「純粋」と言っていることが分かります。外部から見る時間ではなく、内から見る時間が「純粋持続」です。時計で測る持続ではありません。内在的で質的な変化を強調して、あるいはこちらが本来の「持続」だと主張した言葉のように思います。
純粋なシミュラークル

シミュラークルはポスト・モダンのボードリアールが示した言葉です。模倣のことではありますが、もっと豊かな意味を持っています。「オリジナル」とされる現実を規定するような類似物こを、シミュラークルと呼ばれるものです。例えばレストランの入り口にある食品サンプルを例として説明してみます。食品サンプルはレストランの提供する食事の模倣であるのは勿論ですが、それだけの意味ではありません。何を食べるかは、味が重要だと言ったりしますが、実際には食べる前に決める必要があります。つまり味で決めてはいないのです。本物の料理の価値や価格、期待といったものは、サンプルによって先に決定されるのです。つまりレストランの食品サンプルは本物を規定しています。これがシミュラークルです。シミュラークルの例としてよく登場するディズニーランドの例を考察してみましょう。レストランの食品サンプルの例と同様な構造を持っています。ディズニーランドは、映画の実物的な模倣であったり、お城やおとぎ話を模倣した場所です。しかし、夢の国ってどんな場所と言った時、ディズニーランドのようなイメージを思い浮かべ、ディスに―ランドを真似た建物や施設を作ったりするようになっています。ディズニーランドは本来模倣であるわけですが、それが現実の街や施設を規定しています。この構造がシミュラークルです。食品サンプルと同様な構造です。それでは、「純粋なシミュラークル」とは何かを考察してみましょう。上の絵はAIに東山魁夷の絵を見せて、これを似せた背景にして未来の掃除機を描いてもらった画像です。これに宣伝の文句を加えました。宣伝文句の1番に「静粛」と書いています。東山魁夷に似せた背景はこの「静粛」を強調するために付けたイメージ図です。言葉と背景によってこの未来の掃除機がパワーがあるのに静かなイメージを与えています。本来、東山魁夷風の背景と掃除機とは何の関係もありません。しかしそれを掃除機にピタンと貼ると、そのイメージが付与されます。これはもはや実際の模倣ではありません。それでは何を模倣したのかというと、絵が持っているイメージを模倣したのです。この実際と関係のないイメージを模倣するのが「純粋なシミュラークル」です。例えば、アイスクリームでもクルマでも、若いアイドルが宣伝したとすると、それはフレッシュだとか、はつらつとしている、と言ったイメージを貼っているのです。シミュラークルは模倣ですが、その模倣も実体から離れた場合が「純粋なシミュラークル」です。距離感を感じます。
純粋のイメージ
「純粋」という意味はそれぞれ異なっています。しかし何か共通した点があるようにも思います。明確には分節できませんが、「分節する前、本来的、離れた距離感」といったニュアンスが入ってくるように思います。また「純粋***」という言葉を作った、彼らの人間を観る切り口に感嘆致します。

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