プログラムと身体性の関係

身体性

はじめに

私は今年で63歳になります。少し早いですが今日(3/31)で定年退職となりました。歳をとったせいか、感じる豊かさが変わってきた気がします。モノを作り特許にし、お客様に紹介することに力を入れてきました。多く発明することで、それが豊かさに繋がると思っています。それが新しい製品に結びつくことを理想として、消費社会、資本主義と関わってきました。Monogokoroのblogは消費社会とは離れ、プログラムにより体験を増やし、驚きや感激の純粋経験を日々味わおうとしています。かといって社会と完全に離れるほど悟ってはおらず、公開している次第です。「教養」として社会に還元できる要素が少しは残っていればと思います。ガルブレイスが述べた「十九世紀のはじめには、自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のある人はいなかったであろう」という言葉に対して、教えてもらわなくても、世界に触れることで見つけていけるように思っています。インターラクティブなプログラムはそれと相性がよく、well-beingに繋がっていると感じています。

プログラムと身体性との考察

プログラムと身体性

モノ作りもそうですが、プログラムしていると頻繁に驚きがあります。予測して作りますが、思わぬ映像が現れます。これが身体性につながり、身体性はイマージュや高分解能な見方として蓄積されていきます。このことについて考察してみます。
「驚き」や「感動」を感じた時、まず起きる現象は身体の反応です。目が見開くとか、「オー」と言った声が出る、心臓がドキドキするとかです。この現象は思考より先に身体が世界に反応しているということです。この後で「驚いた」とか、「感激した」とか意味付けされ、言語化されます。このように身体は真っ先に反応し、感じ取るための基盤です。その基盤の上で感情が立ち上がります。純粋経験について、blog「純粋経験のオートポイエーシス的解釈」や「純粋の考察」で述べていますが、反応は判断する前、言語化する前に在ります。それが分節して言語化される間が純粋経験です。プログラミングについて、多くの人は頭の作業と思いがちですが、「予期せぬ動き」, 「生成された形」, 「時間変化」, 「反応の連鎖」等があり、それに対して「オー」とか「アー」とか感じます。つまり身体に世界が触れているのです。世界に接したからこそ、こうした反応が身体に出るのです。身体が興奮したその出来事は、恐らくイマージュとして内部に沈殿しやすいでしょう。内部に刻まれていきます。これが世界を観る時に「解像度」を変えることになります。そして私はプログラムをする時、「オー」とか「アー」というような感激を期待しています。驚きを感じ、身体が興奮し、その興奮がイマージュを沈殿させ、イマージュが高分解能の見方を育てます。そしてその見方が次を作ろうとし、そしてまた身体が反応し・・・を繰り返そうとします。そう思うと、何故プログラムをするのか、ということの答えとして、「世界が身体に触れ返す瞬間を求めているから」、と答えることができます。単に機能を求めているだけではないのです。

プログラムと映画の比較

プログラムと身体性との関係を考える時、プログラムと映画を比較すると自分が行うという行為の意味が分かります。映画でカーチェイスや高い所から落ちるシーン、モノ突き出てくるシーン等を見た時、自分事のように感じ体は反応します。つまり身体性は関係しています。しかしこれらは自分が世界に働きかけた結果ではありません。ここが決定的に違います。だからその体験を自分で作製しようとは思いません(勿論、そういうシーンを作製しようと思い、その参考のために映画を見た、といったような場合は、作製したいという気持ちは立ち上がるでしょうが)。プログラムの場合自分が作ります。自分の行為の結果として、身体の反応が返ってきます。「自分が世界に働きかけたら、予想外の形で返してきた」。つまりフィードバックがあり、それを感じて次何かを行い、またフィードバックを得るという連鎖につながります。このことはプログラムもそうですが、モノを作る場合も同じです。そしてプログラムを含めてこのモノとのやり取り、即ちコミュニケーションが好きなことが大切です。なぜならお客様の反応が全てと思っていると、その反応に自分自身が非常に振られてしまいます。しかし、私が世界に対して働きかけた結果、こう返してきた、そこに意外性や理解した感じが楽しいとなると、お客様の反応がよければ勿論いうことありませんが、例え期待した反応がなくとも、モチベーションは下がりません。また次作ろうと思えます。このモノとのコミュニケーションが好きという感覚はその人の自律性を保ちwell-beingに繋がります。大げさですが、何かをすれば、世界は身体に返してくれているのです。これを感じ取れると、浮き沈みが在る中でも安定したベースを保てます。

洞窟の比喩とプログラム

2025.07.18の「「環世界」と「暗黙知の次元1」」の洞窟の例とプログラムの手探り感は重なるところがあります。世界が身体に触れているという感覚が伝わると思い取り上げます。このblogの中で次のように書きました。「その一つに真っ暗な洞窟に探り棒を手にして入っていく例があります。探り棒で探りながら前進します。最初、探り棒から得られる信号の意味を理解できず手への衝撃として感じます。しかし次第にそれが手の延長となり、棒の先端が何を触っているかの感覚が伝わってくるようになります。探り棒は身体化されたのです。意味不明であった感覚が有意味な感覚となり、固いモノがあるとか、柔らかいモノがあるとか、大きさはどれぐらいで、形はこんな感じ、といったような意味に変わります。」TouchDesigner等のプログラムもこれに似た所があります。グラフや映像表示が直ぐにできるので、全体の構成を決めてから作るというより、少しづつグラフや映像表示を見ながら作って行きます。インターラクティブに、こうすればこうなる、というのを探りながら作製していくところが似ています。反応を見ながら・感じながら進めるところに身体性を感じます。インターラクティブと身体性とは非常に密接です。インターラクションを作製するとき、ユーザーと装置がインターラクティブにやり取りできるように考えます、そしてその映像の動きに、予想外を入れることでユーザと装置との関係はより強くなります。インターラクティブのプログラムを扱う場合、これと同様なことが生じています。つまりプログラムは身体的なのです。

表紙の画像について

表紙の画像は「なんだこれは」と感じた画像を集めたモノです。それぞれに意外性を感じ、どうなってこれができたのか、自分で作製しておきながら、再度考えてみる必要がありました。そしてこうすればどうなるだろうなど、試してみて別の形状も作製しています。これはモノとのコミュニケーションです。これが楽しいと思えるから続けることができています。

まとめ

身体性というとスタジアムでウエーブ等をする例が典型的です。選手と会場と一体となり、思わず体が動き、声を出しています。スタジアムが一体となり、主客未分の状態になっています。しかし身体性が働いているのは、そうした特別な場合だけでありません。何かをすれば世界は身体に返してくれています。それを感じまた何かの行為をし、また反応を見て何かをする。これは身体的な行いです。これはインターラクティブなプログラムも同じです。即ちプログラムもまた身体的なのです。プログラムで日常的に世界に触れているという感覚が持てると、それが作業ではなく、well-beingに繋がります。何かを生産するためにプログラムするということは勿論大切ですが、世界に触れ、wellーbeingにつながる感覚が好き、という在り方も大切です。

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