先回の「プレグナンツとベイズ推定」の中で、「人間の本質はベイズ推定することだ、なんて言われている」ということを紹介しました。確かに人間の本質にあたると思いますが、これだけでは全く不十分です。ベイズ推定を述べた以上、思弁的、ネオ・プラグマティズムにも触れないわけにはいかないだろう。ということで、今回のブログです。
「ベイズ推定」は少ない情報で予測する技術であるが、その背後には確率分布の事前情報が必要です。これは背後に多くのデータを持ち、それを利用して今を予測するというわけで、科学的というか、概ね正しい結果を得るのに順当なお堅い方法です。しかし、前のデータをもとに予測するので創造的、創発的かというと、そうではないのです。人間のこの部分を説明しにくいのではないかと思います。この創造的、創発的をカバーするのが「思弁的」という思想だと思います。
「思弁的」というのは、確実なデータを重ねた結果を基にするだけでなく、新しい観点や可能性を探ることに重きを置きます。「こういう観点で切り取ると、こんなこともできる、こんなふうに解釈できる」といったように、異なる見方を提供し、それを基に新しいアイデアや概念を生み出すことを目指します。私のブログでは、生命や人間をどう見るかということで、工学的に作製するモノが違ってくるということを、述べていくつもりです。例えば「生命とモノとの違いはなんなのか」、という問いに対して、生命は「オートポイエーシス」だ(オートポイエーシスは私のブログの中心を担う予定です。これは、生命の本質を自己生成・自己維持のプロセス、自分の構造や機能を自律的に維持し続けること、とする仮説です)とみる考があります、いやいや生命の本質は「代謝システム」(食べて活動エネルギーを得ることが本質だ)という考えもあります、「動的平衡」でしょうとする考えもあるでしょう。このように様々な仮説があるわけです。これらは生命の本質はこれに決まっているといった確定した真実というよりも仮説です。「オートポイエーシス」という観点から生命や人間、社会を観ると、このようにとらえることができます、ということです。そしてそれを、工学的に活用すると、こんなものができます。ということです。絶対的な真実があって、それを基に演繹して次なる事実を見つけていく、というのと大きく違っているのです。そして、生命の本質は、こうした様々な考えの全体として浮かび挙がってくるのだとするのです。この考えは、確実に動作し役立つモノ、を目指す場合は厳しいですが、これは使えるかもしれないな、といったようなモノを作るのに適しています。つまり創造的、創発的になるわけです。オートポイエーシスについて今後話したいと思いますが、非常に創発的です。思弁的という考えでは、確実なモノからの演繹でないわけですので、ランダムとか、偶然の出会い、新たな関係性、カオス、フラクタルといったことを重視していく傾向があるようです。また私はこの考えは懐も深いと思います。例えば、デカルトを考えてみます。彼は物質と精神の二元論を唱え、確実なものとして「我」を設定し、それから演繹しようとしました。これは演繹的で思弁的ではありません。しかし、現在の私たちは、「我」が確実な存在であることは実証されたものではありません。「我」より先に「他者」があるのではないか等の議論もあります。そもそも確定された真実があるのか、ということも揺らいでいます。そうすると、「我」を前提に仮定すると、デカルトがいったようなことを述べることができる、というように、一歩引いてみることができます。実証できたとするモノが何なのか、ということは時代によってかわてくるんだとすると、過去に正しいとした案件も、現在では一つの仮説としてみることができると思います。
ネオ・プラグマティズムは、理論や抽象的な真理の追究より、現実の問題解決や実用性を重視します。それはプラグマティスムと同じでしょうと思われたと思います。私は長くネオという意味がピンときていませんでした。ネオの方は、言語や社会性に力を入れているように思います。世界そのものは存在していますが、真理はその外にある固定されたモノではなく、真理は、我々人間が使う言葉や社会の文脈の中で生まれるのであって外部にない、とする考えです。役立つものが真理である、とする考えはプラグマティズムを引きついでいますが、その真理は言語や社会の文脈の中で生まれてくるもので流動的である、としているのが新たな視点だと思います。言語を使わないと、もちろん真理は語れないわけですが、言語は手段で、その使い方は社会との関係性の中で形成されるとしています。そしてここに興味を持っています。社会との関係性の中で形成されるということを受け入れると、考えに柔軟性を持つことができるようになります。例えばベイズ推定して過去の確立から基づくとこうです、という結果を得た場合、現在の社会的な文脈から考えると、それはこう解釈できる、というように、今どう解釈することが実用的なのかという観点から再解釈を促せるのです。また思弁的からいうと、こう仮定するとこういうことが導ける、となった後で、それは今の社会的な文脈からいうとこう解釈できる、というように、もう一度意味付けできるのです。率直に言うと、ベイズ推定のようなアプローチは、ちゃんとしたモノが作れるが、面白くはないな、というとことろがありがちです。そして思弁的の場合は、面白いけどそれどうするの、という側面がありがちです。ネオ・プラグマティズムをこれらを再解釈して、結びつけるのに役立つというのが私の考えです。
こうした様々な思想のことをポリフォニー(多声)と言います。多様性のようなことですが、様々な思想の方が集まって、何かを作るということはもちろん大切ですが、一人の中にポリフォニーを持っていることのほうがより重要と思います。現代ではデータに基づいてということが必須です。それは当然ですが、それが過剰となると、真理を固定的で客観的なものとして捉える方向が強くなります。柔軟性を欠くということです。思弁的やネオ・プラグマティズムの考えは、柔軟性を与えてくれます。
私の思想的基盤はポストモダンです。2000年ぐらいまではそれでいいような雰囲気がありました。しかし現在ポストモダンの思想はズタズタです。せつないです。今回説明した、ベイズ推定や思弁的、ネオ・プラグマティズムは比較的新しい思想です。わりと新しい思想は軽やかです。哲学や文学は工学と違って。新しいものが優れているというわけではありません。過去の思想にとって代わるというより、ポリフォニーを大切にしたいですね。
今回、このブログの絵(キャッチアイ画像)に適当なモノが思いつきませんでした。思弁的を代表するような絵をつけたかったのですが。今回の絵は、モノの行進をイメージしてblenderで作製した絵です。人の代わりにモノが行進したらこんな感じということで、思弁的にこじつけてつけて見てください。
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