慢性的な小さな限界状況

実存

はじめに

「限界状況」というとヤスパースですが、彼の述べている限界状況は、個人がどれだけ努力しても避けられない、根源的な状況をさしています。典型例としては、「死、苦悩、闘争、罪責」等です。こうした限界状況に直面した時、「私は自分が何者であるかを問わざる得なくなる契機と捉えています」と述べています。実存主義が非常に明確に現れています。実際彼は第一次、第二次世界大戦を生き、限界状況を体験されています。現在の日本に住んでいると、彼の言う限界状況に合うことはそうありません。だから彼の思想は参考にならないかというと、そんなことはありません。現代人は「慢性的な小さな限界状況にいる」。そのように思います。ここで述べる「小さな限界状況」とは、「日常の中で繰り返し訪れる、行き詰まりの瞬間」のことです。「慢性的な小さな限界状況」など「限界状況」じゃない、と言われるとその通りです。ただ「慢性的な小さな限界状況」であっても、実存的契機の対処法は同じ構造を持ちます。
しばらくの間、相転移現象を扱い、その考えを人側の相転移へ展開してきました。この人側の相転移を考えている時、これはヤスパースの限界状況の対応と似ていると感じておりました。人側の相転移は「自己が自己を超えていく運動」と捉えることができます。これは実存の問題です。私は学生の頃実存主義は大好きでした。しかし今思うと「実存主義」は悲壮感があり重たい感じがします。この後のホスト・モダンは軽やかです。しかしかつて社会主義思想を破壊する程の影響力を持ったポスト・モダン思想は、現代の現実問題の解決能力をあまり持ち合わせていません。個人的には、実存主義の悲壮感を「諸行無常」として「とらわれるな」とするのが、実存主義を現代に即した形に再定義することにつながると思っています。

慢性的な小さな限界状況

私の「慢性的な小さな限界状況」は、このMonogokoroのblogのネタ探しです。始めた時60件程度は蓄えがありました。しかし現在は次は何を書こうかといつも考えている状況になっております。このような小さな限界状況は誰しも仕事をしていると常に直面していることでしょう。退職した現在は、このblogも止めたければ止めればいいわけで、ストレスは随分と下がっています。随分と小さな限界状況ではあります。はじめにも書きましたが、このようなことは限界状況というべきでないことですが、実存を問われ、それに対して対策を立てる構造は、限界状況と同じです。ですので、小さな限界状況と呼ぶことに致します。段階としては次のようになります。
1.行き詰まり(ネタ切れ・発想の停止)ー>壁として現れます。
2.手を動かす・退隠を探す・視点を変える・組み合わせを検討する(壁に向き合う対策)ー>限界状況への応答
3.新しい見方が生まれる(例えば、アートや物語としてみる。他の分野の同様な出来事と合わせてまとめる)ー>自己超越
4.自分が変わる(志向性の変化、自分の更新)ー>実存の生成
これは、ヤスパースの言う「自己が自己を超えていく運動」のことです。違いは小さな限界状況は「日常の創造行為の中で繰り返し起こる」という点です。
2.が限界状況の応答ですが、大きくは2つの方法を述べています。手を動かす・退隠を探す、と視点を変える・組み合わせを検討する、です。退隠と言う言葉は、オブジェクト指向存在論で使われる言葉です。2025.10.17「AIとオブジェクト指向存在論2」で解説しています。オブジェクトは他者が完全に理解することはなく、「隠された側面」、「予測できない側面」を常に持っている、と言う考えです。オブジェクトを汲みつくすことはできません。ですので、もっと何かあるだろう、というように掘って行く側面のことです。ですので2.で述べているのは、掘っていく側面と、別の観点から見る側面とが在ると言っています。この別の側面に気付くと言う点が、しばらく連続して扱ってきた人側の相転移に相当しています。相転移させるのは、ノイズ誘起遷移や確率共鳴が行いやすい状態に自分を持っていっている必要があります。離れたところでパラメータを触っても相転移しません。これはストレンジアトラクターと同じです。最近の例では、微分方程式を可視化するという数学的な面から、作製した映像をみることで、アート的な表現へ志向性が移ったこと(相転移したこと)を話しました(2026.02.22「工学と文学あるいはアートとの往来」)。また、「モノ側の相転移と人側の相転移」では、SDFの中にオブジェクトを置くことを切っ掛けとして、宇宙駆逐艦雪風が、襲われている映像が作れました。これは意味付けが変わった例です。SDFと思っていた場は、雪風を襲うオブジェクトと変化しています。これもまた人側の相転移です。これらの例は、数学や工学として接していた私から、「へーこんな風に感じれるんだ」、と新しい自己を開いたこてでもあります。こうして私は少し違った私に変化したのです。このような解釈はとても実存的です。
この他にも、非常に優れた論文に触れた時、自分でするよりこの方がした方が速く成果になるだろうと思う場合があります。そんな時私は、別のアプローチを探します。これは諦めるというより、別のアプローチを探したほうが、自分らしさが出るだろうと思うからです。ヤスパースが言うように、「自己を超える可能性は常に開かれています」。実存主義の立場では、自己は固定されていません、常に開かれており、変化し、生成し続ける運動体です。これが、相転移するという考えの根幹にあります。次のblogをどうしようか、といった日常的な小さな限界状況の中にも、「限界状況ー>応答ー>自己超越ー>新しい自己」という、ヤスパースのいう「実存への跳躍」の構造は成立しています。

実存の苦しさからの脱却

最後に実存主義の陥りやすい苦しさについて述べたいと思います。blogを続けるという例の場合、手を動かす・退隠を探す・視点を変える・組み合わせを検討することで、行き詰まりを解決するわけですが、続けること自体が目的となり執着となってしまうと、自己の自由さは失われます。実存主義は自分を創り続けようとしますが、これ自体が苦しさになってしまうなら本末転倒です。その点「瞑想」や「只管打座」といったことは、自己変革する手法として優れています。自己発見することが執着となって維持することが目的化しないからです。実存の生き方の中には「諸行無常」のような仏教的価値観を置いておくことが執着に至らないために大切です。

まとめ

自分の行っていることが、構造的には限界状況から脱却する実存的方法と類似していると思ったことから、限界状況という概念を中心に実存主義について述べました。志向性の変化、相転移は、新しい自己を開きます。ただ、自己変容が目的となればそこに執着が生じます。仏教的価値観を含めた実存的な生き方が、実存主義を現代的に使うには必要と思います。限界状況は、結局「自分を知る」方向に向かいます。そして、こういう側面もあるんだ、と変化した自分に気づきます。自己は固定されたモノでありません。
表題の絵は、AIのCopilotに書いていただいた画像です。大きな壁に行く手を遮られた時、壁を登ることが解ではないく、飛行機で超える、船で超える、自分がロケットを付けて飛ぶ、壁を破壊する、あるいは、バーチャル空間で向こうへ渡る等、手足を使って登って超えること以外の方法があることを思い立った時の絵です。小さな限界状況では、通常こうした別の方法が大抵は在ると思っています。あなたにとっての「小さな限界状況は、どんな瞬間でしょうか」、意識すると、きっと自己発見に繋がるでしょう。

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