「純粋」の考察4:「アウグスツス」と「ドリアングレーの肖像」の比較

純粋

はじめに

Monogokoroでは「純粋」をテーマにして考察してきました。「純粋」の主な意味は、
・分節する前
・私を捨ててそれになるー>純化する
・質的に変化しながらも連続する何かがある
・本来関係ないが意味を与える(離れているが関係を付加する)
といったことでありました。これはら哲学の分野で登場する「純粋」です。先回「ナラティブ・パッケージ4:宇宙駆逐艦・雪風の物語」を書いて、文学について書くのも悪くないと思いました。これまで「純粋」について述べてきた際、文学にでてくる「純粋」もあるな、と思っていたのです。寧ろ文学でないと表現できない「純粋」があるのです。また2026.04.14のblog「遊びの考察」で、「月と六ペンス」を登場させました。この時、実在の人物”良寛”と小説内の人物”ストリクランド”とを比較しました。このblogで文学の登場人物を含めて考察するのも面白いと思いました。このようなことで、文学もblogの対象に広げてみることにします。実際のところ、blogのネタ探しは悩みの種です。このため範囲を広げようと思った次第です。

文学で扱う「純粋」の例

文学で扱う「純粋」も複数ありますが、まだ整理できていません。今回は、”道を踏み外すが、欲を捨て「純粋」さに至る”という例を考察します。哲学の場合は「純粋経験」はこうで、「純粋持続」はこういう概念だ、というように説明します。しかし文学では、「こうです」と短い言葉で説明できないことを、主人公の生涯を描くことで表現します。言葉で完結に言えないことを示すのに、物語が必要なのです。今回扱うのは、ヘルマン・ヘッセの短編集「メルヒェン」の中にある「アウグスツス」を取り上げます。そして比較対象はオスカー・ワイルドの「ドリアングレーの肖像」です。これら2つに話は、どちらも「願い」が最初にあり、願いは成就します。その成就が自己の破壊へ向かわせます。そして「アウグスツス」は苦しみを通過した後「純粋」へと進みます。一方「ドリアングレーの肖像」では、破滅へと逆方向へ向かいます。このように、この2つの物語は対照的です。

「アウグスツス」と「ドリアングレーの肖像」の比較

1.両者は「願いの成就」から始まる物語です。
・アウグスツス
母の願いである「息子が皆に愛されるように」->願いが叶い、アウグスツスは誰からも愛される存在になります。
・ドリアングレー
ドリアンの願い「自分は若いままで、肖像画が老いていけばいい」ー>願いが叶い、若いままになる。
どちらも「願いの成就」から始まります。しかしここから軌道がずれていきます。

2.「願いの成就」が”歪”を生む
・アウグスツス
何をしても許される。何でもしてもらえるー>過剰な自己中心性、過剰な関係性ができ、その中心に自分がいる。
・ドリアングレー
快楽の追求、他者の破壊、自己腐敗、世界との断絶

どちらも「願いの成就」が人間を歪めます。ここまでは同じ構造で動いています。

3.苦しみから展開する方向
・アウグスツス
何でもかなうことに虚しさを感じる、苦しみは自己中心を露わにする契機になる。
愛されることの虚しさ、自己の空洞化、世界との断絶 ー>孤独 ー>そして贖罪へ(純粋へ向かう)
(ヘッセの文学の多くは、「苦しみー>崩壊ー>喪失ー>再生」 この流れを持つ話が多いです。デミアン、シッダールタ等)
ただし、贖罪の生活は、反省や後悔を伴いますので、私を捨ててそれになるという純化ではありません。私を捨てるわけではない、無垢ではないのです。ここが哲学の純粋と違う点だし、適切な言葉が思い当たらないところです。欲望を捨てるという意味の純粋さはあるのですが。
・ドリアングレー
罪の蓄積に苦しみますが、肖像の腐敗が自己の代わりとなり、自己破滅は加速します。肖像が罪を全て背負い、自己は罪から離れれるという意識を持ちます。
ー>苦しみは止める契機にならず、破滅への燃料となります。

苦しみー>分裂ー>破滅
恐らくこの分裂を描くことに、肖像が必要だったのでしょう。罪を自分でなく分身である肖像が背負うというのが、アウグスツスとの分岐点だと思います。アウグスツスでは身代わりは無く、虚しさや孤独をへ落ち自分で背負います。そしてそれから贖罪へ向かいます。ドリアングレーは肖像という身代わりがあったので、罪は肖像が引き受け、最後まで自身が背負うことが無かったのです。

4.ヘッセの「純粋さ」とワイルドの「美の絶対化」
・アウグスツス
上で述べたように、孤独を経て贖罪の純粋さへ向かいます。
・ドリアングレー
「美の絶対化」を生みます、その美はドリアングレーの若さの維持です。このために犠牲をよしとし、倫理や他者との関係を切断し破滅へ至ります。

このように、この2つの物語は、苦しみまでは同じですが、全く違う結末に至ります。アウグスツスは私を捨てるわけではありませんが、贖罪の「純粋さ」に至り、ドリアングレーは「美の絶対化」と言う意味では「純粋」であり、そして破滅します。
「美の絶対化」という観点では、「月と六ペンス」のストリクランドや、芥川龍之介の「地獄変」と比較するのも面白いでしょう。

まとめ

人間はアウグスツス的な側面とドリアングレー的な側面を持っているでしょう。贖罪の純粋性へ向かうアトラクターと、何かを絶対化し破滅へ向かうアトラクターの2つを持っているということです。人はその他にも多くのアトラクターを持っているでしょう。それらに引き付けられながら、どこかへ向かう姿を描くのに文学は適しているようです。そしてアトラクターそのものも人生によって変わっていきます。この複数の可変するストレンジアトラクターによって人がある程度モデル化できるのではないか、これは私の壮大なテーマです。
アウグスツスとドリアングレーの分岐点は、肖像の有無でしょう。ドリアングレーでは罪は肖像が身代わりとなって引き受けるため、自分で背負うことがなかったのです。肖像は、一見苦しみを免れているようで、実は「苦しみを通じて変わる可能性」を失わせているのです。一方アウグスツスは、身代わりがないからこそ、自身に罪を引き受け、心は救われる方向へ進みます。

2026.06.26で「世阿弥と「他者の眼」」では、世阿弥は人生には段階があり、少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消え、というように、人生は何かを喪失していく段階と捉えていたことを述べました。そして最後に「老骨に残りし花」が残ります。これも様々な出来事を経た後にある「純粋」と言えるでしょう。

表紙はAI copilotに描いてもらいました。アウグスツスが孤独から抜け出し、人々に水を分け与え、病人を看病し、子供に微笑む姿にしました。贖罪を他者への奉仕として表しています。

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