はじめに
YouTubeで哲学者や宗教家についての解説動画を見ることがあります。道元の話を聞いていた時、身体性を強調する実践者である彼が、何故「只管打坐」という座っているだけの方向に進んだのか疑問に思いました。身体性について代表的な哲学者にメルロー・ポンティがいます。彼の場合、身体があることで、明日はできるようになろう、もっと練習しよう、といったように志向性が生まれると述べています。道元とは真逆なのです。その後解説書を読んだりAIと議論したりしました。一方、2026.02.19のblog「「純粋」の考察で、「純粋理性」, 「純粋経験」, 「純粋持続」, 「純粋なシミュラークル」を考察し、「分節する前、本来的」と言ったニュアンスが「純粋」にはあることを述べました。私が思うに道元はさらに深く「純粋」を突き詰めます。そこに哲学者ではなく、宗教家の姿を見ました。こんな方がいたのだという驚きを感じます。
最近ようやく私の中で道元が何を言っているのかまとまってきました。そこで紹介したいと思うようになりました。あくまで私見です。
「存在論と輪廻」の要約
Monogokoroでは度々「存在論」について触れてきました。特にオブジェクト指向存在論について多く述べてきました。「存在論」全般を扱ったblogとしては2025.08.17の「存在論と輪廻」があります。道元の純粋さの考察は「存在論」との比較が有効と思います。そこでまずこのブログの要約を述べ、その後比較したいと思います。「存在論と輪廻」では次のことを述べています。
「存在論」とは「存在のフレーム(外枠)は何か」、を問うことです。それは基本、「現れ」と「フレーム」の二層構造で捉えます。例として
1.現れが「文字」に対して「インク」がフレーム
2.現れが「波」に対してフレームが「海」
3.現われが「花」に対してフレームが「エネルギー」
を説明しました。例えば「花が存在する」ではなく、「存在が花する」を説明しました。これは「木の持つエネルギー(存在)が、春と言う縁に出会う事で、花として現れた」と解釈します。これらの「文字」, 「波」, 「花」は「見える形はその都度変わりますが、その背後にある”働き”は一つと考えています。このように外枠が存在だとする例を挙げると、全てを包摂する外枠があるのではないかと思います。これが「存在のゼロ・ポイント」、「アハド」等と言われています。これは分節する前の状態、即ち「純粋」です。
そして、ハイデガーが「存在が成り立つには、それを考える人間つまり現存在が必要」と考えていたのではないかという推察を行い、メイヤスーが人間がいない時代の存在論を述べることで、存在論がゆさぶられている現状を述べました。これを解消するために輪廻的解釈を提案しました。そしてそれを日常に展開し、日常の一つ一つの行動が「小さな生まれ変わりとして」起こっていると考える案を説明しました。ある時は食事をし、ある時は散歩に行き、・・・といったことですが、これを日常の一つ一つの行動が小さな生まれ変わり(輪廻)と解釈する見方です。
道元との比較
道元も「存在が花する」と言ったように、存在が縁起によって現れると言う点では似ていますが、現れを包摂するフレームを置きません。「外枠」を否定しています。海という外枠があって波がある、エネルギーという外枠があって花がある、という二重構想を作りません。道元は次のように言うでしょう。「波がそのまま海である」、「花がそのままエネルギーである」、「文字がそのままインクである」。現れと根源を分けない、現れそのものが根源の働きとします。現れそのものが根源の自己展開です。その時に現れている状態を「有時」と言います。その時その時に働きが現れとなって在る、という考えです。この考えは、私が提案した、日常の一つ一つの行動が「小さな生まれ変わりとなって起こっている」という考えと一致しています。私の場合、「存在論」の伝統を踏襲して「輪廻」を外枠に置いたわけですが、道元は「外枠」を置きません。ですので私が「輪廻」と考えたモノは、瞬間瞬間の「有時」の働きの一形態です。このようにこれ以上ないほど突き詰めた「純粋さ」が道元の魅力です。
只管打坐
次に「はじめに」で書いた、身体性を重視する道元が何故「只管打坐(ひたすら座る)」に至ったのか考察してみましょう。
道元は目的論を徹底的に否定しています。これがメルロー・ポンティと違うところです。「悟るために坐る」、「良くなるために修行する」、「成果を得るために努力する」、現代人が当然と思っていることを全否定します。目的を持つと、身体は手段化されます、そうすると「競争・比較・達成」の世界に巻き込まれ、身体性を失います。このことは多くの方が体験しているのではないでしょうか。
道元は「全ての生きとし生きるモノには仏性がある」と信じています。これは「大乗仏教」の教えで、全てのモノは仏になる可能性, 本質を備えている、という考えです。道元の解説には、「人は仏性があるのに、何故修行しないといけないのか」ということを疑問に思い旅にでる話をよく記載しています。上の観点でいうと、目的論的になり手段化されることで仏性が隠されてしまうのです。ここからは私の推測です。仏教は「真似ることでそれになる」と考えています。道元がすることは「仏を真似る」ことだと思います。仏が世界を観る姿、これが「座禅」でしょう。つまり「只管打坐」です。真似るのは座禅だけではありません。食事をする、農作業をする、仕事をする、あらゆる事に対して仏がそれをするなら、その姿を真似て、日常を送ろうとしたのだと思います。もともと人は仏になる性質を備えているので、仏を真似ることで、露わになると直観したのでしょう。さらに道元は、「すでに仏であるから真似る必要もない」とも言っています。これは次のように解釈できるでしょう。「仏を真似る」ことを徹底的にしていくと、「すでにそうである」にたどり着くのではないでしょうか。これこそ身体性です。何度も何度も行っていると自然にできるようになる、真似る必要もないところたどり着きます。ここには存在論の「現れ」と「根源」の二重構造はありません。直観的・直接的な「純粋さ」があります。宗教者の持つ「純粋さ」が光っています。
感想
道元は私にとっては「何を言っているんだろう」という方でしたが、何度も考えることで上に書いたような人物像を持つに至りました。定年退職が近づくにつれて目的論的なことから離れていきます。そして私は本来何がしたいのか、という問に直面します。Monogokoroのblogはその解答の一つです。割と純粋に思考を楽しんでいるように思っています。道元はとても共感するところがあります。彼は「哲学者」ではありません、「宗教者」とはこういう方のことを言うのだろう、と感じさせます。そしてこの「まぶしいほどの純粋さ」は哲学者では持てないでしょう。
表紙について
目的論を排した画像を挙げたいと思いましたが、今の私では書けないし、勿論過去作製した画像にもありません。表紙の画像は全く違う目的で書いた絵を思い出したものです。押すスイッチの形をどうしようかと思った時の絵です。単純なのですぐに思い出せました。今見ると、中央の円や周囲の円が、大きくしたり、小さくしたり、左右にずらしたり、することで、様々に見えるなと思いました。しかしそれらは全て単純な円の現れです。無理矢理こじつけました。

コメント