中間者

思想の展開

はじめに

古代から現代の長い哲学の流れに、「中間者」の概念は通底しています。本稿でいう「中間者」とは、完成された存在でも固定された存在でもなく、欠如を抱えながら自己形成を続ける存在です。長い流れに通底しているにも拘わらず、社会の2極化は進み、格差や、評価、効率化、といった単純化した指標を求める方向にあります。哲学は無力です。何故無力なのか、というと哲学に興味を持っている人が少なく、社会が動くようにならないからでしょう。しかし個人的には有用で、仕事でも役立ってきました。またこのMonogokoroでも役立っています。そして私自身も「中間者」で在れ、と思っています。最近知り合いと久しぶりに哲学の話をしました。そこで中間者の話を書いておこうと思いました。

古代から近代の「中間者」

ソクラテス

中間者は、プラトンの「饗宴」に登場します。プラトンは紀元前400年頃の方で古代の人です。この中で、ソクラテスが若い頃、巫女であるディオティマに「エロース」について教えられる場面があります。「エロース」は「ダイモーン」で、不死で完全な神と、死すべき人間の間に存在する者、「中間者」です。それでは「中間者」とは何ですか、という問に次の有名な言葉で答えます。「すでに何かを持っている者は、もやはそれを求めることはありません、ですが、それを欠いているという自覚を持たない者もまた、それを求めはしません」。「エロースは知と無知の中間に位置する者なのです。神は知者ですから知を愛することはなく、知者になろうと熱望することもありません。無知蒙昧な者も知を愛することも知者になろうと切望することもないのです。知は最も美しいものの一つであり、エロースは美しいものへの恋なのです」。大変美しい古典を感じさせる言葉です。これは全てが思いどうりになる神は、何かを求めることはないし、自身に何か足りないと思っていない人も求めることはない、という意味です。「中間者」とは「欠如と希求の間いにある存在」です。哲学には人間をこのように捉える伝統があります。

ピコ・デラ・ミランドラ

次に紹介するのは、ルネサンス期の15世紀の方、ピコ・デラ・ミランドラの「人間の尊厳についての演説」です。ルネサンスは、神に全面的に依存する時代から、人間中心の考えが台頭してくる時代です。人間が自身の運命を切り開いていく、という考えが入ってきます。神に完全に依存するのでは「中間者」足り得ません。有名な一文があるので抜粋致します。
「アダムよおまえには一定の住所も顔形も特性も与えなかったが、それはお前が自分の意思と判断によって、それを思いのままに決めて、手に入れられるようにするためである。他の被造物は自然の定められた法則に束縛されているが、おまえは自分の自由な意思に従って、何ものにも束縛されず、おまえの自然を形成することができる。おまえを世界の中心においたのも、世界の全てのものをたやすく観察できるようにするためである。おまえを天上の者としても地上の者としても、また死すべき者としても不死なる者としても創らなかったが、それはどんな形態についても、おまえが自ら選択と名誉とを持って、おまえ自身の形成者、創造者となることができるようにするためである」。このように神が語る視点から、格調高く述べています。
神や天使のように完全でもなく、獣のように固定的でもない、人間は、自らを作り変える自由さを持ちます。それは「中間者」だからこそ可能になります。

パスカル

もう一人、「人間は考える葦である」で有名なパスカルも「パンセ」の中で中間者について述べています(中間者という言葉を使ってはいません)。彼は17世紀のフランス絶体王政の時代の方です。ガリレオやニュートンが登場し科学が急速に進歩し、神の信仰と衝突するようになった時代です。また食べるのに精一杯から少し余裕がでてきました。そうすると、自分が何をやりたいのか、が問われはじめます。

人間は小さい、壊れやすい、弱い、死ぬ、宇宙の広さに圧倒されながら、しかし、それらについて考えることができる。考えることができるところに人間の尊厳があり、偉大さがある。と説きました。弱いからだめなのではなく、強いから凄いのでもなく、弱さや強さ、死について考えるところに偉大さがある、と逆説をついた方です。これは「中間者」のことです。

何をやりたいのか、を問われると、何に時間を使うのか、その使い方は死の前でも意味があるのか、といった、現代人と同じ問いが現れます。実存の問題です。パスカルは人生は保留できない、と述べています。人は正しい道が分かってから進むことができません。わからないまま、今日を使うのです。不安があるが信じたり、迷いながら仕事をしたり、疑いながら進んだり、しないといけません。パスカルは人は賭けを行っているという面白い表現をしています。分かってからすることはできないのです。分かっていないのに時間は立つので、保留できないまま、仕事を決めたり、結婚を決めたり、決断する必要があるのです。有限な人間が有限の時間を何に使うのか、という現代の問いが現れます。分からないのに決めていかないといけない、これも中間者の特徴です。

「中間者」の現代思想への継承

Monogokoroでは現代思想を複数扱ってきました。これらの思想を「中間者」の視点から再び紹介致します。

ディスプロポーション

2026.02,22「ディスプロポーション」で紹介しています。もともとはパスカルが使った、「プロポーションの欠損、均整がとれていないこと、不均衡、不釣り合い、あるいは背反する運動に引き裂かれ、定まらぬこと」に端を発しています。鷲田清一著の「モードの迷宮」で登場する言葉です。少なくとも2つの相反する極があり、その間を揺れ動く、移動することで、ダイナミックな変化を作り続ける現象です。衣服が”隠す”と”見せる”という相反する極を持ち、その間を移動することで、様々なモードを作り続けてきたことを述べています。非線形現象でいうなら、2つのアトラクターがある系で、一方に移動したり、他方にいったり、両方を移動したり、移動の仕方等、様々なモードができることです。現代の価値は相対的です。従って複数の極があり、どこの極へ向かっても、”欠如と可能性”が生じることになり、ダイナミックな変化に繋がります。この構造が「中間者」と言えるでしょう。

しかし、近年は価値は相対化していますが、それを結局、お金、名声、利益、効率等、見える化できる指標で評価する傾向が強まってきました。これは一方の極を求めるようなもので、「ディスプロポーション」の観点から、不健全です。パスカルの言う”賭け”を取らない状態で、自分の意思で決断することに疲れ、他者の判断に依存する傾向、失敗を恐れる傾向が現れているようです。これと対抗する「中間者」の考えは重要さを増しているでしょう。

他者性

Monogokoroでは、検索の所に「他者」と入れていただくと、多くのblogがヒットします。このテーマだけでblogを書いたことがないな、と今思いましたが、「他者」については多く扱っています。基本的には”自分の知らないこと”、”理解していないこと”を指します。他人が何を思っているか、何者なのか、いくら知り合っても知らないところがある。テクスト、つまり書かれたモノということですが、自分の知らないことが書いてある。また全てのモノも、例え小石であっても、それがどんな歴史を持ってここにあるのか、といったように、全てを知ることはできません。このように自分の知らない他者と出会う時、どうなるのか、ということを問題にします。そしてその議論の多くは、”自分自身が他者によって開かれていく”、ことになります。知らないモノと接することで、新しい私が創られていきます。他者性を拒むと閉じた私になってしまうのです。他者性を取り込むことで、自分を創っていくわけですが、それは知らないことと出会うことであり、葛藤があります。そして他者と出会うことで自分自身を知って行きます。デカルトの「我思う故に我あり」が近代哲学の出発点のように言われます。しかしその我は、他者がいないとできません。我より先に他者がある。それぐらい重要な概念です。

それでは中間者の観点では他者はどうなるのか、ということですが、パスカル風に言うと、知らないことを考え、開かれていくことで、人間は偉大なのです。ピコ・デラ・ミランドラ風に言うなら、おまえ自身の形成者、創造者となることができるのです。ディオティマ風に言うなら、「すでに何かを持っている者は、もやはそれを求めることはありません、ですが、それを欠いているという自覚を持たない者もまた、それを求めはしません」、他者の存在によって求めるのです。ソクラテス風に言うなら、「無知の知」、知らないということを自覚する態度です。そして現代風に言うなら、主体は「自分でないもの(他者)」によって開かれていく、ということです。このように、「他者性」が、中間者を生みます。

オブジェクト指向存在論から見る「中間者」

オブジェクト指向存在論から見る「中間者」は、上に挙げた「他者性」の一部ですが、オブジェクト指向存在論は、特にオブジェクト指向プログラムの思想として相性が良いと考えているので、節をあらためて書くことにします。内容は、すでに2025.10.17の「AIとオブジェクト指向存在論2」で、紹介しています。オブジェクト指向存在論は「プロパティ+メソッド+退隠+翻訳」の構造を持っているのではないか、というのが私の主張です。そして、「退隠」と「翻訳」は他者論で、中間者を生みます。オブジェクトは他者(他のオブジェクト)を完全に理解することはなく、「隠された側面」、「予想できない側面」を持っているとしています。これを「退隠」と呼びます。つまりオブジェクトは不可知(知ることができない、価値が定まらない)側面を持ちます。私が何かを見てAと思った、それをどう思うのかというのはA, B, C・・・と無限に可能性があります。私がAと思ったということはA以外が「退隠」された、と考えます。つまりオブジェクトは多層的で無限の可能性があり、私はその一面を捉え、他は「退隠」したわけです。「翻訳」というのは、理解し合う関係より、訳しあっている関係性です。Aという言葉に対して、私は自分の文脈にそった形で解釈し、他者は他者の文脈にそった形で解釈します。お互い違う文脈で解釈すると、伝わらないのです。しかしこれを、本当に残念だというのではなく、コミュニケーションによって知らない文脈を知って行き、気づいていけるように、より積極的に見ています。このように「退隠」「翻訳」によって、新しい私が開かれて行きます。中間者の話であることがわかるでしょう。

まとめ

私は定年退職となり、やらないといけない、ということがなくなりました。それで、これはどうするのだろう、とか、どう考えればいいのか、といった純粋な気持で、プログラムをしたり、思索ができるようになりました。それが何かに役に立てれば嬉しいという気持ちもあります。それが誰か読んでくださる方がおられるといいな、とblogに繋がっています。そしてこの活動が、自分自身を知ることでもあるし、私自身に変化を促してもいます。そう思うと、私は中間者の位置にいると言えるのでは、と思ったのです。自分自身の「欠如」に対して、もうだめだ、と思わないでもらいたい。「欠如」があるから、「開かれて」いくのです。人間の価値は完全であることではなく、未完成であり続けることにあります。

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