はじめに
Monogokoroでは身体性や成熟、おのずから成る、といったことを目的論より強調してきました。今回は短い物語からそれを感じた話を3件紹介致します。3件とも私は結構影響を受けたと感じています。哲学の本を「こういう意味なのか、いやこうなのか」、等と考えながら読むのも悪くないですが、物語を読んで、「あーそういうことなのかー」、と思うことも好きです。
きこりとさとり
佐藤俊明著の「禅のはなし ー二つの月ー」からの話です。
”さとり”という架空の動物がいます。非常にめずらしいので、捕まえるとお金になります。木こりは木を切るために森に入ると、”さとり”がいました。そこで捕まえようとしますが、”さとり”は木こりの心を読む能力を備えています。ですのできこりが行おうとすることの先を考えることができます。このため捕まえれません。そのうち木こりは、こんなことをいつまでもしていても、仕事にならないと思い、”さとり”を捕まえることをあきらめ、一心に木を切る仕事に精をだします。そうしている時、偶然に斧の頭が柄から抜けて飛んでしまいました。それが”さとり”にあたり、捕まえることができました。無心の心は読み取れなかったのです。
”さとり”という動物は「悟り」のことです。仏教らしく「悟ろうとして修業する」目的論を否定しています。一心に行っている内におのずから成る、という話です。また一心に行うことで、没頭する主客未分の話でもあります。
常識
次は小泉八雲の「骨董」にでてくる「常識」という話を紹介致します。
人里離れた所に、座禅と聖典の研究にひたすら精進する博識の僧がおります。信心深い村の人達が野菜や米を持ってきてくれることで生活をしています。ある時猟師が米を持ってきてくれました。その時僧は猟師に、普賢菩薩が象に乗って毎晩現われことを話しました。今夜泊まって拝むとよい、と誘います。寺には小僧さんもおり、小僧さんも何度も普賢菩薩を見ていました。夜になると、普賢菩薩が象に乗って現れました。僧と小僧は平伏してお経を唱えます。猟師は弓を取り普賢菩薩に矢を放ちます。矢は胸元に刺さり、激しい雷鳴と伴に消えてしまいました。僧は怒ります。そこで猟師は次のように言いました。あなた一人なら座禅と読経による功徳で、普賢菩薩を拝むことができるかもしれませんが、小僧さんや、まして殺生を生業としている私が拝むことができるはずはありません。夜明けともに、猟師と僧は、普賢菩薩の立っていた所を調べます。そこには猟師の矢を突き立てた、大きな狸の死骸がありました。次の文章で結んでいます。「僧は、博識で信心深い人であったが、狸に容易にだまされていた。しかし、猟師は無学で信心のない男だったが、たしかな常識を備えていた。そして、この生まれつきの知恵だけによって、ただちに危険な幻影を見破り、それを打ち砕くことができたのである」。
この話は感銘を受けました。そして研究者であった私はよく思い出す話でした。机上の勉強ばかりしていると、この和尚のように「一体何を学んでいるんだ」、そういう状況に陥りがちです。身体を通して学んだことが真実にたどり着くのです。
瓢鮎図(ひょうねんず)
次は禅問答の話です。下の絵を見てください。

瓢鯰(ひょうたんなまず)等と呼ばれたりしています。瓢箪を持った男が鯰を見ている所を描いています。京都市の妙心寺塔頭・退蔵院の所蔵の国宝です。表面がつるつるの瓢箪で表面がぬるぬるの鯰を押さえこんで捕まえるにはどうすればよいか?これが質問です。公案と呼ばれているもので、あなたならどのように答えられるでしょうか?捕まえることが困難な対象を如何に捕まえるか、という点では”きこりとさとり”と似たところがあります。
考案は目的を達成するためにどうすればよいかをまともに答えることではありません。そして正解もありません、違った見方を示す柔軟さが求められています。
私なら、「遊び」あるいは「ネガティブケイパビリティ」と答えます。その心は、というと次のようなことです。できないことを承知でやってみよう。そうすると、楽しい(幼児が何か夢中でしているようなもの)、ナマズや魚や他の様々なモノを押さえることを行うと、これは押さえれるが、あれは押さえることができない等、様々なことが分かってくる。おのずから身体を通じて分かっていくことを重要視しましょう。そう言っているのだと思いました。もう一つの私の解釈は、「考えても答えがでないことを、長く考えよう」と言っているようにも思えます。「考えても答えがでないことを、長く考える能力」のことを「ネガティブケイパビリティ」と言います(2025.06.29のblog「文学的な関係性「混沌と何モノでもない」」で紹介しております)。詩人キーツは「ネガティブケイパビリティ」を持っている人の代表者にシェイクスピアを上げています。恐らく彼は「人間とは」を考え続け、それを戯曲として表現した方だと思います。「人間とは」これは一意に決まる答えはありません。多くの戯曲を通じてその姿を様々な角度から答え続けているのです。できなさを抱えたまま身体で試すことが、世界の構造を開きます。
これらの共通点
これら3件とも仏教の教えです。仏教は「欲望・執着・目的への固執が苦を生む」と説きます。このため、目的への執着を弱める、結果をコントロールしようとしない、成熟を待つ、つまり、「執着を捨ておのずから成る」、態度を持ちます。もう一つは体験による身体性の重視、実践の重視が挙げれます。「きことりとさとり」、木を切ることに没頭することから、さとりを捕まえることに繋がります。「常識」では机上の学問に精を出す僧より、動物や自然の中で暮らす猟師が見破ります。瓢鯰図は私の解釈ですが、身体を使って「やってみよう」を述べています。世界は身体を通じて開かれます、また目的を捨てたとき、世界の側から働きかけが起こります。
宗教者の場合、仏教者なら「執着を捨ておのずから成る」をあらゆる場面で実践されます。一方、一般人は様々な考え方の一つとして学び、場合場合で、それぞれの考えを活用する態度が多いと思います。昨今は、今回のような禅に通じる思想に興味が増してきました。
表紙の絵は、このblogをAI Copilotに見てもらって、「きこりとさとり」の斧が柄から抜けて飛んでいく瞬間を描いてもらいました。”さとり”が半透明の”森の精”の様に描いているのはAIの判断です。

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