はじめに
ブッダを敬愛している私にとっては、全てが原因と結果の連鎖にあるとする縁起の法則、つまり関係性は全ての現象の背後にあると思っています。しかしAIが登場し、自身もよく使うようになってきた現状、全ては因果関係にあることが揺らいでいます。AIは全て相関関係で答えを出しているからです。このように根本的なところが揺らいでいる時代に直面しているのは、めったにないことでしょう。Monogokoroでは偶然性や予測不可能性を重視し、第3の関係として、複数のストレンジアトラクターが関連して動作する関係性を主張しています(2026.06.05「ストレンジアトラクターと現代社会2:サピエンス全史」)。これは、偶然や予測不可能性が入っているものの、因果の構成です。AIのような相関関係で確からしい答えを導くような装置でありインフラでもある新しい存在が登場したわけですが、それにはやはり、AIが求められ、登場する原因があったわけです。それはつまり縁起です。従って相関関係で答えを導くAIもまた縁起を超えてはいません。全体的には縁起の中にあるが、部分を見るとそれは相関関係として独立している領域があるという位置付けです。AIは縁起の構造が自己を反映した結果として生まれた存在です。 つまり、縁起が自らの相関的側面を技術として具現化した存在と捉えることができるでしょう。因果を考える人間より、相関で予測するAIのほうが、速くて正確な答えをだすようになった時、この独立部分が肥大化し、人間は因果を考える能力を失っていくのか?これは現代の核心的な問題です。2026.07.23のblog「道具と外注についての考察」はこの問題と同じ問題を持っています。その時のblogでは「遊び」と「道」が希望になることを述べました。個人的には、非線形である複数のストレンジアトラクターの関連を「遊び」や「道」として求めることで乗り切れると思っています。しかし経済的なメリットが相関関係のほうが高ければ、社会全体は原因を考えない方向に進むでしょう。
AIは相関を扱う
ブッダは複雑な関係性の網の目を、最終的には「縁起」として読み解けると考えています。例え非常に複雑で分からないように見えても、複雑さの奥には因果の筋があります。これに対してAIは、因果を探さず、「次に来そうなパターン」を統計的に予測します。このやり方が相関関係です。AIはAの後にBが来るとすると、何故Bが起こるのかという原因を扱いません。「Aの後にBが続く」という相関を学びます。この話は18世紀の哲学者ヒュームを思い出させます。彼は「知覚の束」という言葉で経験主義を語りました。毎日東から太陽は昇りますが、明日も東から昇る保証はないと言う主張です。人は毎日そうだからそのように思っているというわけです。理由は知らなくても分かる場合は多くあります。
人間は恐らく原因を知りたいのです。しかし一方で結果が知りたいのです。結果を知るという事に特化したならば。つまり予測に特化したなら、因果の構造を求めなくてもできる。という事実をAIは突き付けました。これは何故人間は原因を知りたかったのかということに向かいます。この時、結果を知りたいために原因を知りたかったのなら、もはや結果が予測できればよく、AIで十分になります。そうであれば人はバカになっていくでしょう。このバカさが、トルストイの「イワンの馬鹿」のように過程を重視するバカさなら救われるかもしれませんが、結果だけを重視するバカさであると、危機的な状況になるでしょう。ヒュームやトルストイを思うと、この問題は18世紀ぐらいから、何度も登場していたようです。
因果関係と相関関係の例
今回の表題でblogを書こうと思った時、学生時代に心理学の授業だったと思うのですが、聞いた話を思い出しました。
水難事故とアイスクリームの売り上げの関係を図にすると強い相関が見つかる。という話です。この原因は夏で暑くなったからです。夏になり水で遊ぶ機会が増えたので水難事故が増えるし、冷たいモノを食べる機会も増える、ということです。これはアイスクリームを食べると水難事故に合うという、原因と結果ではありません。グラフには隠れた原因があることを注意しましょうということでした。しかしこれは、アイスクリームの売り上げの推移を観察していると、水難事故が予測できる可能性があるということでもあります。夏の暑さに原因を求めるのは因果関係ですが、アイスクリームの売り上げから水難事故を推定するのは相関関係です。AIが行っていることは、アイスクリームの売り上げから水難事故を予測することに相当します。
人は因果を考えなくなるのか
この問いが人の方向性を左右するほど重要かもしれません。私はどこかで因果関係を考えることと、相関関係を使うことが、均衡すると思っています。結局どちらも使うということです。過去圧倒的に因果関係重視であったため、驚異に感じているということでしょう。恐らく、結果だけを求める人間が増えて、例えそれが経済的な豊かさに繋がっても、実は経済的な豊かさを得た人たちは、自分で原因を求めていた人である、ということになり、AIだけに頼ること自体は飽和すると思います。しかし二極化はこれまでより加速します。因果を考える人と考えない人の分岐点が来ているように思います。
全ては縁起の関係性の中にある。これ自体は破られていません。その関係性の中に、因果を求める方向と相関を求める2極ができ、その間で揺らぐディスプロポーションの構造へと変化すると捉えています(参考:2026.02.22のblog「ディスプロポーション」)。
一方因果の領域でも、偶然性・予測不可能性が増し、エネルギーといった一つのパラメータで統一的に説明できなくなり、複数のストレンジアトラクターが関連して動作する関係性が目立つようになってきました。このように因果の領域でも大きな変化があるのです。こうした変化の中で、相関を含め、縁起全体で、非線形、社会構造、世界観モデル等を考えて行くのが、人の役割になるでしょう。因果を扱える人は縁起全体も考えれるため、寧ろ価値が上がると考えます。
この文章を書いていて、縁起についはブッダから数えると2500年ほど人は考え続けてきたわけです。そこにAIを含めなければならない時代になったんだなという感じがします。
まとめ
このblogを書くことで次の構造を見ていることがわかりました。表紙はそれをまとめた図です。
1.全ては縁起の関係性の中にある。縁起は静的な因果の網ではなく、偶然性・非線形性、そして相関が絶えず再編成される動的平衡です。
2.新たな傾向として、縁起の中で、偶然性・予測不可能性と相関が大きくなってきた。
3.特に相関が拡大し、因果と相関の2極化の方向化が現れる。それらはディスプロポーションの関係にある。
4.因果の中でも、「エネルギー」といった一つの固有値で状態を説明できない時代になり、複数のストレンジアトラクターの相空間が絡み合って状態を作る。この状態から、偶然性・予想不可能性を扱うのは人の役割である。
5.人は相関を含めた縁起によって、非線形、社会構造、世界観モデル等を考えることになる。
このように、縁起の中にある、因果も相関も大きく変化してきた時代だと言う認識です。そしてこれらのディスプロポーションを上手く人が扱えれるかが問われます。
もう一つ今回のblogを書くことで気づいたことがありました。人とAIの違いが議論される際、違いとして「身体性」が挙げれらます。上記の考察を終えた後、「身体性」+「因果性」のプロセス、と言えると思いました。人はこの2つを磨く必要があります。

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