はじめに
レヴィナスの他者論について考えてみます。他者についてはMonogokoroでは何度も扱っています。「わからなさ」、「理解できなさ」、を表しています。最近では、2026.08.31のblog「中間者」で次のように述べました。「基本的には”自分の知らないこと”、”理解していないこと”を指します。他人が何を思っているか、何者なのか、いくら知り合っても知らないところがある。テクスト、つまり書かれたモノということですが、自分の知らないことが書いてある。また全てのモノも、例え小石であっても、それがどんな歴史を持ってここにあるのか、といったように、全てを知ることはできません。このように自分の知らない他者と出会う時、どうなるのか、ということを問題にします。」
他者と出会った時に人間はどうしてきたか、を歴史から見ると、人間の残忍極まりない性質が分ります。排除し征服する。この傾向が強くあります。以下の虐殺の例が、「わからなさ」からくる決めつけ、が全ての原因の元であると言いたいのではありません。しかし、「わからなさ」は、他者と出会った時の行動の在り方を決める大きな要素です。決めつけになる場合と、そうでなく、「わからなさ」を維持する場合とが、分れ道であるように思います。
古くは紀元前260年頃、秦は長平の戦いで趙兵の捕虜40万人を生埋めにしたと言われています。第1回十字軍では、10万人を超えるイスラム教徒を、また第4回十字軍でもコンスタンチノープルで虐殺しています。スペインが新大陸を発見し、感染症と大量虐殺、過酷な労働により、先住民族の人口は1/10に減ったと言われています。アメリカによけるアフリカ人の奴隷制度でも多くのアフリカ人が亡くなっています。スターリンは各地に強制労働収容所を作り2300万人を虐殺したそうです。第2次世界大戦ではホロコーストで600万人のユダヤ人が虐殺されたと言われています。こうした内容は調べてみると次から次へと出てきます。胸糞悪いことです。
今回取り上げるレヴィナスはユダヤ人で、親族の多くをホロコーストで亡くしています。レヴィナス自身もこのように、他者がどのように虐げられてきたのかを体験したにも関わらず、彼の他者論は倫理を説きます。「わからなさ」が排除ではなく倫理に向かう、当事者であったにもかかわらずです。いったいどういう方なんだ。これがレヴィナスに対する率直な意見だし関心事でした。今も納得できたわけではありませんが、何故「わからなさ」が倫理に向かうのか、レヴィナスを初めて知った頃よりは、思うことがあるようになりました。それを述べたいと思います。
他者が思想に直接つながっている例として、つい最近のblog「人の特性8:ストア哲学による物語を作る負の側面の切断」では、自分がコントロールできることに集中することで、断つことを述べました。また非常に特異と感じた方として、2026.06.28のblog「世阿弥と「他者の眼」」を書いています。ここでは他者から見て、芸の上で別人になることを目指したのではないか、という意見を述べています。2026.04.21の「「純粋」考察2:道元」では、道元は仏を真似しようとされたのではないか、という意見を述べました。これらも自己コントロールの仕方でしょう。このように「排除と征服」以外にも答えを出してきた方々はいらっしゃいます。レヴィナスは彼らとは別の解答を出してきます。
倫理の起源:伝承と倫理の関係
私が倫理の起源として求めるのは、神話や民間伝承、民俗学です。この分野では、理由は明確ではないのですが、「してはいけない」という禁秘があり、それに対して「畏れ」があります。それが倫理の元なのでは、というのが意見です。まず「伝承と倫理の関係」について全体的に考察します。
昔と今では「危険」を扱うシステムが大きく変わったことが、倫理にも影響していると思います。伝承では、「あの山には近づくな」、「あの辻は夜通るな」、「あの川には入るな」、と何々するな、という禁止で語られます。現代から見ると迷信のように見えますが、実際は、崖崩れが起きる、強盗がでる、子供がおぼれる、とか危険に対する知恵です。昔は「危険は存在するもの」でそれ自体はコントロールできず、近寄らないことができる全てであったのでしょう。そこに何かがあるから禁止なのか、明確ではありません。そう伝わってきたから、してはいけないのです。現在は危険は対策を行うコントロール対象です。夜道が暗ければ、夜歩いてはいけない、と言わずに、地元の行政に訴えて街灯を付ける等の改善を訴えます。そしてそれは税金を納めているので、当然の権利として考えています。危険だと分かっている所を長期に放置していたら、市や国は何をしているのか、ということになります。昨今は想定外の地震や雨がありますが、それはこれから対策する対象と見ています。この「畏れ」という感情を持つ必要が減ったことが、個人主義を加速し、倫理の衰退の一因になっていると思います。これは悪いことではなく、街は改善されて快適になるので喜ばしいことです。しかし伝承が纏っていたものは無くなります。
昔の危険に対する構造は、昔の倫理「悪いことをすると祟りがある」、「ご先祖様が見ている」、「罰が当たる」ということを畏れる構造と同じです。誰も見ていなくても、大いなる力を持った何者かに見られているのです。だからするな、となっています。何が見ているのかは、どこまでもわかりません。一方近代では、規則を決めて違法だからダメだとします。合理的で優れていますが、捕まるからしてはいけないは、捕まらないならしてもよい、という発想も生まれます。罰金払えばいいんでしょ、という考えも出るでしょう。共同体の関係から、「規則と制裁」へと移動したと言えるでしょう。共同体が持っていた禁秘は、昔から言われていたことで、理由は霧の中です。しかし「わからなさ」を残しておくということに意味があったのです。
民俗学者の折口信夫は「死者の書」を著しています。平安時代の物語です。口承で一族の歴史を伝える老女がでてきます。家の代替わりがあったりすると、この老女が一族の伝説や言い伝え、歴史を語り伝えます。しかし文字で記録するようになってくると、存在意義も消えてしまいます。実際に消えたのは語る役割だけではありません。先祖が体験したであろう、災いや苦労の心の動きを伝えることから、ハザードマップを見るようになって行くのです。そうなると、先祖はその時、どう思ったのか、何をしようとしたのか、一族が背負った苦しみ、といったことを想像することからくる身体性、心や行動に対する理解も無くなります。
これらの話から私が抽出した事柄は、「わからなさ」です。この「わからなさ」を元にして、禁秘が組み立てられていることです。これが「何々してはいけない」という倫理に繋がっているのではないかと思っています。わからないから、排除し征服しようとした時代では、原因を特定し分かったように思おうとします。例えば、奴らは怠け者だからいためつけてもよい、といったように倫理は後退します。ここでは、ほんとうに怠け者なのかは実は重要ではありません、怠け者というラベルを張ることで、「わかった。だからしてもよい」となることが支配には必要だったのです。わかったというより、わかったことにしてしまう、これが行われていました。理性の光によって理解しコントロールするのが近現代的な考えです。原因を特定し、規則と罰の仕組みでコントロールします。倫理が無くなっているわけではありませんが、法と罰が無くて、倫理だけで秩序が保たれると思っている人はいないでしょう。
私の意見は、理由を言わないことで永久に分からなさを残しておき、「わからなさ」からくる「畏れ」によって禁秘を持つ、そして一人だけ持つのではなく、「わからなさ」を共同体で抱える仕組みがあることが重要だとする考えです。「わからない」ことに偽りの理由を付け、わかったとしない。これが倫理の起源ではないか、と考えました。伝承は「理解不能なものとの付き合い方」を共同体の成員に教えているように思います。良い・悪いのは話ではありません。
全体性と無限
レヴィナスが著した本のタイトルに「全体性と無限」があります。ここでは全体性と無限が何のことなのか、について議論し、「わらなさ」は「無限」に繋がっているという意見を述べます。
レヴィナスが言う全体性は、ある特定のモデルで現象が説明できる、ことを言っていると思います。Monogokoroで主張している例では、世界はある切り口で説明できる時代は終わったと述べています。これが他者の場合では、時間性や民族性で説明するというようなことができなくなったことに対応します。ある切り口で説明できるならレヴィナスでいう全体性です。現在は世界そのものがストレンジアトラクター化し、そして相空間を作る変数も、情報、経済、社会、心理、技術、文化、等複数になった時代だと思っています(blogでは「ストレンジアトラクターと現代社会1、2」)。これは他者に対しても応用でき、その人を理解しようとしたときに、国や言語や民族性は勿論、思想、教養、暮らし等様々な変数が必要となることだと思います。だから単純化してこの人はこうだとは言えないのです。しかしこれも、相空間を描く変数が増えれば、その人の考えや行為が説明が付くだろう、というモデルです。従って全体性の範疇に入ります。パラメータが多くなり複雑化はしていますが、説明できるという信念があるのです。一方、いくらパラメータを増やしても人間は説明できない、人の性質はこうだ、と言ったとしても、次々に別の性質が現れ、結局全てを包摂し、モデル化することはできない。どれだけ複雑にしても、この人はこういう人だとは言えない。また人は知れば知るほど分からなさも増すこともあります。つまりこれらが「わからなさ」なわけですが、それを「無限」と言っているように思います。ですから「無限」はモデル化できません。私のイメージとしては、マルクス・ガブリエルが「意味の場」というのを提唱しています。「意味の場」は無限にあり、全ての「意味の場」を包摂する「場」は無い、と言っているのに似ています。
レヴィナスの他者は、無限な存在でモデル化できず、「わからなさ」がいつまでもある存在です。いつまでも残ることが、「わからなさ」が畏れ、慎重さや尊敬、私が彼に何ができるかという責任、「汝、殺すなかれ」等、が現れ、倫理に繋がるのです。「わからなさ」に出会ったとき、何某かの説明を付けて、彼らはこうだからとモデル化し、わからなさをなくすことで、支配し無力化する全体性の方向と、「わからなさ」をいつまでも残し、「畏れ」となって、「汝、殺すなかれ」、の倫理の方向があるのです。彼は宗教者でもあるので、いくら進んでも分からなさがあることに「神」を感じていたかもしれません。「神に対する態度で他者に向き合う」そう考えたのかもしれません。
エンジニアにとっては、大抵のモノはモデル化の対象です。勿論、今できない、まだわかっていない、ということはありますが、次第に出来るようになるでしょう、と基本思っています。レヴィナスは、いくら進んでもわかない、汲み尽くせない、それが他者であると述べています。これは確かに倫理や人の傲慢さに対する警告となります。そして、人間って、汲み尽くせない存在なんだ、と思いたい気持ちがあります。人とモノとの違いは何か、これは大きなテーマです。オブジェクト指向存在論のように、同列に扱いましょう、という考えもあるし、「代謝」ですという考え、「オートポエーシス」ですとする考えもあります。レヴィナスの無限性と倫理、を持ってくることもできると思います。
まとめ
レヴィナスを読んだ時、不幸のどん底にいる彼が、倫理を説くことに、何という方がいるんだ、という印象でした。彼の哲学の内容より、こんな方がいることに興味を持ちました。この気持ちは今もあります。「わからなさ」が残り続けることが、倫理の元なのではないか、という考えは、民話や小泉八雲が書いた話を読んで思うようになりました。一方、哲学で他者というと、「わからなさ」を表していることを知っていました。そこで今回この線でレヴィナスを考察してみました。レヴィナスにとって重要なのは、他者を理解しないことではありません。理解しようとしてもなお理解し尽くせないこと、相手を説明したつもりになってもなお説明から溢れ出るものがあることだったのではないでしょうか。だからこそ他者は支配や利用の対象になり尽くさず、責任を呼び起こす存在として現れるのです。レヴィナスのことがわかったわけではありませんが、意味不明な方だという印象は拭えました。今回の考察は、レヴィナスの解説書等をまったく参考にしておりません。民話等を読んでいて、レヴィナスと関係しているかも、と思った個人の考えをまとめました。おかしな点があるかもしれませんがご容赦ください。
表紙の画像は、レヴィナスには”顔”の概念があるのでそれを表してみました。”顔”はその人の何かを表現しており、顔から感じ取れる事もあるのですが、全てがわかるわけではありません。「わからなさ」の象徴です。自分がその人を理解するにつれ、徐々に姿や印象も変わっていき、情報や意味を与え続ける存在です。汲み尽くせない無限があります。

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