身体性とAI

身体性

はじめに

AIを使って、blogの内容について議論したり、表紙の絵を描いてもらったりしています。よく人とAIの違いは何か?と問う際に、AIは身体性が無い、ということがあります。その通りです。ただ最近はここで議論が終わるのはモノ足りない気がします。これまで身体性と呼んでいたモノの一部をAIは持っているように思えるからです。私の意見は、AIの登場によって、これまで身体性と言っていた言葉の意味を、より厳密化する、あるいは限定する、必要がでてきたのではないか、と思います。今回はその話を致します。私が身体性をより厳密に捉えることがでました、という話ではありません。

身体性

インターラクションを仕事として取り組んでいた時期があります。このため身体性はしばしば考えました。参考にしたのは、マイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」、メルロー・ポンティの志向性、ピエール・ブルデューの文化資本やハビトゥスの概念です。勿論他にも様々ありますが、これらの方々に特に影響を受けました。ポランニーとメルロー・ポンティについては、少し紹介しています。2025.07.18「「環世界」と「暗黙知の次元1」」、2025.08.05「「人とモノとの間」認識論2-存在論」等です。宜しければ参考にしてください。

身体性と志向性

ポランニーに有名な
「We can know more than we can tell.」(我々は語れる以上のことを知っている)
があります。AIの登場以前は素直にそれは人間の身体性のことで良かったように思います。しかし今になると、身体性として捉えていた「語れない知」も複数あるように思えます。
・本当に身体に依存した知、・実は言語化できないだけの構造知、・社会的に埋め込まれている知、・感情と価値付けを伴う知、等です。今適当に分類しましたが、主張としては身体性と言っていたことの一部はAIが持てるようになりました。このため身体性をもっと高分解能に見る必要があるのでは、ということです。

ポランニーとメルロー・ポンティの共通点は志向性の概念でしょう。ポランニーでよく使われる、真っ暗な洞窟に杖を持って入る例があります。杖からの情報が最初はなんだかわからないですが、次第に、固い柔らかい、近い遠い、音が響く響かない、等が統一され、なんとなく像が得られて行きます。これは「そこに何があるのだろう」、「危険を回避したい」、と言った志向性が、個々の情報を意味ある情報にまとめます。その時杖と私とは一体になり身体化されています。メルロー・ポンティに出てくる志向性は現象学的です。リンゴを見ると、食べたいとか、絵に描きたいとか、誰かにプレゼントしよう、等と、何かをしようと思うのが志向性です。そして特に身体が自由に動かないからこそ、もっとピアノを練習しようとか、早く走りたいので鍛えよう、等の方向が現れることを指摘しました。私なら家にいることが多いので、たまには散歩しよう、といったところです。このように、身体性があるから志向性を持ち、志向性が生じるから練習しようと身体を使います。この場合身体性や志向性と言っている内容の本質は意欲や意思に近いでしょう。

AIには身体が無いので志向性もありません。また志向性が無いので身体もありません。例えば質問に対して答えてくれませすが、もっとこう言えばよかったとか、あの時は間違っていたので、反省しているとか、そういうことはありません。しかし、あまりに流暢に、過去の自分とのやり取りを踏まえて解答してくれるので、こちら側が意思を持っているかのように感じます。AIでなくても、モノに志向性を感じることは多くあります。例えば、私の部屋のカレンダーの上1/3ぐらいには、子供が喜びそうな絵が描いてあります。色もカラフルで、動物が楽しげにしています。これを見ると、この描き手が、明るく楽しいカレンダーにしよう、この動物は何しているんだろう、と思わせるように描いているのではないか、という志向性が汲み取れます。また子供の絵本であっても、弱肉強食のような厳しさを描いているな、と思う絵本もあります。これは絵の背後に人の意図を感じることです。つまり絵というオブジェクトの背後の人を含めてモノと視るなら、オブジェクトは志向性を纏うようになります。つまり背後の人を含めることでモノは身体性を伴います。この考えは、モノとのコミュニケーションを考える場合に重要です。この考えは割と何でも当てはまります。私はエンジニアですので、基板等を見ると、これは工夫しているとか、部品もかえている、冷却に特別は配慮している、とか背後に人の志向性を感じます。AIはあたかもAI自身が人のように解答してくるので、尚更、背後に開発されている方が多数おられ、もっと良い推論をさせたい、もっと自然な対話を実現したい、等と日々思われているでしょう。ここで「モノ+人」連合の志向性を見ると、何を描いているか、現状がどうであるか、の認識があり、何をさせたいかの意欲があり、そして実行があります。現在はこれら一式まとめて、身体性と呼んでいます。そしてAIはすでに何を描いているか、現状どうであるか、の認識は行えます。そして実行もAIエージェント、フィジカルAIになれば可能です。そうすると身体性といっているものの本質は「何をさせたいか、したいか」、という意欲になるのかもしれません。このように、以前より分解してみる必要が生じています。

ブルデューの文化資本、ハビトゥスと身体性

ブルデューの文化資本は、例えば裕福な家庭の子供は、小さい時から本や美術、音楽等に触れる機会が多く、しかも本物に多く触れてきたとします。そうすると、正しい言語能力や美や感動する能力を得やすい環境にいる場合が多くなります。これらは学校教育に有利に働きます。これにより、親の社会的地位が子供に再生産されることに繋がります。ですので、文化的に豊かに過ごすことのできる環境にいるということが、資本を持っていて好きなものを手に入れれるという優位差になぞり、文化資本と言っています。子供の頃からクラシック音楽を頻繁に聞く環境、美術館に親しんでいる環境、本に囲まれて育つ環境、にいたとすると、大人になった時、「この和音やメロディーは美しい」とか「この文章のリズは上品だ」とか、意識しないで分かるようになると言います。これをハビトゥスと呼びました。これは暗黙知です。例えばミケランジェロの絵や彫刻について、大人になってから学ぶことで、ミケランジェロがどういう方であったのか、どんなスタイルの彫刻であるのか、等には、寧ろ後から勉強した方が上手く答えれることは十分にあります。しかし、子供の時からそうした絵や彫刻が身近にある環境で育った方は、なんとなくミケランジェロらしさをしっており、分析や解析をすることなく、この彫刻はミケランジェロに似ている、ということが分ったりするのです。この暗黙知も身体性です。何か説明はつかないが、身体に刷り込まれているのです。

この身体性の一部をAIは持っていると言えると思います。AIは文章なら、一貫性、構造、比喩、語彙の制度、リズム、等を非常に高度に評価します。これは勿論「感じている」わけではありません、巨大な比較空間(これは相空間と言えます)の中で、位置を推定することができます。またAIはパターン認識も非常に得意です。これらによって、これは誰々の文章に似ている、とわかります。これは人が過去に読んだ文章から相空間を持ち、比較するのと同じです。非線形的にいうと、クラシック音楽が日常的に流れている過程に育つと、ある種のアトラクターが形成され、何かを聞いた時、それがどのアトラクターに類似しているのか認識できるというわけです。このアトラクターを「センス」と言ってもいいと思います。ある種センスが作らていくのです。しかしながらAIは、これを読むと、胸が締め付けられる、懐かしい、涙がでる、という感情はありません。ですので、相空間を持つ構造は人と似ていると言えるでしょうが、感情は持っていません。

以上から、次のように言えるというのが意見です。ハビトゥスと述べていた身体性に関わる案件は、1,構造認識と行動、2,感情、からなっており、1,はAIもすでに持っている(あるいは持ちつつある)、と思います。ですのでこの話の身体性は、例えば1,2を同時に持っていること、2.を持っていること、だというように、改めて問われているように思います。

まとめ

AIには身体性が無い、とよくいいますし、正しいと思います。しかしこれまで使っていた意味での身体性の一部は、もうAIは持っているのではないか、と思われます。AIは志向性(意欲に類似)を持っていません。しかし人+AIを一つのシステムとみなすと、志向性を持ち身体性を備えたことになります。また身体性は、感情、認識機能と実行機能です(プログラムができるとか、予定を調整できる、というような実行機能です。ロボットと融合するフィジカルAIでは、何かを持てる、走れる等も入るでしょう)。無いのは何をしたいかという意欲と、感情の機能でしょう。荒っぽい話になりましたが、AIの登場によって、身体性をもっと高分解能に視る必要があるのではないでしょうか。AI時代の到来を受けて、ポランニーやメルロー・ポンティ、ブルデュー、等を再考するのも興味深いことです。

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