ゆたかな社会

ゆたかさ

はじめに

社会学者ガルブレイスの「ゆたかな社会」は衝撃を受けた本の一つです。彼が主張した点を大胆に要約すると次のようになります。人々の欲望は生まれるのではない、企業や広告のマーケティングによって人工的に作られる。その結果、社会は「本当に必要なもの」ではなく「売るために作られた欲望」を満たす方向へ進む。これにより、個人の消費活動は「ゆたか」になっても、教育・道路・医療・福祉などの公共サービスは貧弱なままに留まる。政府は公共支出を増やし、社会的バランスを整えるべき、と主張しました。例えば、広い公園があると市民がそこへ集い、憩いの場となります。しかしそう考えず、消費社会としては、そこに家を建てて売ると儲かる、遊び場を作るにしても、柵を設け入場料を取ると収入が増える、と考えることが優先されます。これを問題と捉え、公共性を大事にしようと訴えています。市場の論理が公共の価値を過少評価する構造を問題にしました。この内容自体興味深いですが、私が刺さったのは次の言葉でした。「十九世紀のはじめには、自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のある人はいなかったであろう」。この言葉は現代人が、「何が欲しいのか、何をすればよいのか、誰かに決めてもらわないといけない時代になった。」ということです。より解釈すると、他人が欲しいモノを自分が持っている、他人が行いたいことを自分ができる、これを追求する社会である以上、誰かにほしいモノを言ってもらわないと、自分では何が欲しいのかわからないことになります。そして資本主義である以上、他人が欲しいモノを作り・売って社会が廻ります。消費社会はモノがあふれ欲望を促進する社会で、物質的には便利になっていきますが、これが「ゆたかな社会」なのでしょうか?今回のblogはこれに対する私の考えを述べます。実は前からどこかのタイミングで「ゆたかな社会」を取り上げたいと思っておりました。これまでに書いた「高分解能1」. 「人の特性の考察」, 「高分解能2・・・」, 「相対的・・・」, 「アクターネットワーク」等は、今回のblogと関係しています。

「発展的未来のゆたかさ」と「伝統的なゆたかさ」

「発展的な未来のゆたかさ」をAIのCopilotと話ながら描いてもらいました。その画像を次に示します。

掃除機の絵は以前のblog「「純粋」の考察」で用いた画像です。他は、「いつまでも働ける」、「広がる移動の自由」、「効率化・最適化」をテーマにしたイメージです。これらの言葉自体は追い求めるべき重要な案件です。しかし何か私の「ゆたかさ」のイメージではありません。「いつまでも働ける」というのは、「実存哲学」に興味を持っている私としては「死」があるから充実するという考えと違います。「広がる移動の自由」も効率化のような限られた範囲の中で成立するもので、守られた空間の外は廃墟のような気がします。自由だからと言って自分で決めると思っていても、その背後には他者によって決められた制約があります。

次の画像は対照的に「伝統的なゆたかさ」についてAIに描いてもらった画像です。

家族そろって田植えをしている画像、おじいさん, お父さん, 私 、と三代にわたって同じ家具職人となり、伝統的な作製方法を守っている人達の画像です。手で田植えする画像は、趣味として体験するには「ゆたかさを」感じますが、この方法で生計を建てるのであれば、「ゆたか」な暮らしは難しいでしょう。三代にわたる家具職人は、ガルブレイスが「十九世紀のはじめには、・・・」と述べたことに対応して描いてもらいました。つまり家具職人の子として生まれたなら、家具職人になるという伝統的な社会です。実存哲学で問題となる、何をしてもよいという自由だからこそ悩む、ということが無い時代の象徴です。社会全体がそうなら疑問をもたないかもしれませんが、現代では強い抑圧と感じるでしょう。これらの画像が「ゆたか」であるかどうかは、背後の文脈、アクターネットワークをどのように想像するかで変わります。

「資本主義的ゆたかさ」と「禅的なゆたかさ」

他人が欲しいことを自分が持っている、あるいはできる。これを追求するかぎり、誰かにほしいモノを言ってもらわないと、自分が何がほしいのかわかりません。その役割がメディアです。そして資本主義である以上、他人が欲しいと思えるものを作ること、あるいは欲しいと思わせることでモノが売れ、社会が成立します。自分が好きなモノを他者と関係なく誰もが個別に決めるとなると、そもそも消費社会・資本主義は成立しなくなるでしょう。東洋思想の禅は、他人が欲しいモノを私が持つという欲望の範囲を小さくし、執着から離れて生きることを目指します。しかしこれは社会を「ゆたかに・便利に」する方向とは違っています。資本主義の「ゆたかさ」と禅の「ゆたかさ」とは、逆の「ゆたかさ」です。この関係は2026.02.22のblog「ディスプロポーション」で述べた、ディスプロポーションの関係に思えます。この両極の間を揺れ動いています。

私はシニアに入っていますので、とちらかというと「禅的なゆたかさ」を求めるようになってきています。Monogokoroのblogを書いているのも、発見や自分の視界が広がるのを感じることができ、それが嬉しいからです。しかし悟っているわけでもなく、見てくれる方が少ないと残念に思います。他者の目を気にしていないわけではありません。

気づきのゆたかさ

「気づく」という行為は、外部の評価や所有とは無関係に思います。世界と自分とが深く結びつく体験です。Monogokoroは基本的にこれを求めてプログラムしています。在る概念が腑に落ちる、以前は見えなかった構造が見える、言葉にならなかった感覚が形になる。こうしたことは「純粋経験」でしょう。しかし「他人を通して自分を知る」というのも真理です。上で述べたように、他者の反応が気にならないわけではありません。次の図は、これまで「気づき」に繋がった例を集めたものです、他にも多くの「気づき」に繋がった例はあります。

「気づき」は、視野が広がることに通じるので「ゆたかさ」に繋がっています。「高分解能」と関連が深いでしょう。個人的にはWell-beingの効果があるように感じています。しかし、社会に繋がっているかというと希薄です。Monogokoroでは公開することによって繋がろうとしており、「教養」という面で社会と関係を見つけようとしています。しかし微々たる活動です。今後何かしら新たな展開を試み、社会性を備える必要があると思っています。

まとめ

消費社会では欲望を常に作り出さなければ、資本主義的な「ゆたかさ」が作れません。一方、「気づき」を中心とする禅的な「ゆたかさ」は消費社会とは関係なく内省的です。このため社会を「ゆたかに」する動きとは結びつきが弱いです。「他人を通じて自分を知る」という関係性、及び他者に伝えることで「教養」を広げるという社会性が、その間を結びつけると思います。両者はディスプロポーションの関係にあるように思います。

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