世阿弥と「他者の眼」

実存

はじめに

4月以降、道元や良寛の禅僧、禅の影響を強く受けた西田幾多郎に関係するblogを書きました(2026.04.21「「純粋」の考察2:道元、2026.06.14「遊びの考察」、2026.06.22「純粋経験再び」)。禅や仏教は内省的で「他者の眼」を全く取り上げていないように思います。一方世阿弥は老いても尚「他者の眼」を意識し、それを生涯にわたって「芸」に昇華し続けました。そして恐らく、禅と似た境地に至った方です。禅とは逆方向から境地に至ったのです。
また、世阿弥は「他者からの視線」を常に意識したにも関わらず。現代社会のように、それが人間疎外や人格を攻撃するに至る方向は微塵もありません。
更に、彼は歳を取ったのでもうこれでいい、ということを認めなかった方です。常に完成を目指し努力し、「芸」を人生をかけて生涯行う道であることを実践しました。これも現代人の働き方とは著しい違いがあります。歳を取っても「老骨に残りし花」を求めました。退職した私にとっては、共感するところがあります。
このように、私には世阿弥は、禅からも、現代社会からも、働き方の観点からも、特異点のように思えます。
「他者の眼」を重視しながら、何故禅と同様な境地に入れたのか、また何故現代社会のように、人間疎外の方向にならなかったのか、歳を取ることをどの様に捉えていたのか、を考察してみます。あくまで私見です。

世阿弥と禅との比較

私が思う、世阿弥と道元や良寛の禅僧との共通点をまず述べると、両者は「自己を超える地点を目指した」という点です。
世阿弥は、「他者の眼」を次のように捉えていました。
・「見る人にどう映るか」を生涯考え続けた。
・「花」は観客の心に咲く
・自己鍛錬は常に見せるためにある
このようにまとめると、現代では「他人の眼」を常に意識して、息苦しいと思われるかもしれません。しかしこれらによって「自我を薄くする」という禅と同様な方向に向かいます。この典型が、「演じる段階を超えて、それに成る」ということであったと解釈しています。恐らく「憑依する」とか「憑く」というような方向に向かうことでしょう。つまり「他人が見て」、それに成っていると思えることを目指したと思います。技術を学んで演じる段階を超えて、それに成るわけです。それに成るのですから、自我から離れる方向です。禅の、自然と一体になるとか、仏を真似る、ということとは違うやり方で、「自己を超える」のです。
「能」は芸能ですから、「外へ向かう」のですが、これが「内へ向かう禅」と、向かった先である「自己を超える」点で共通しているのが興味深い所です。

禅と世阿弥とを比較して「自己を超える」ことを目指している点で共通していると述べました。「自己を超える」超え方というのは、世阿弥と良寛や道元が違うように、それぞれの人が、それぞれのやり方があると思います。違う方向の超え方をした話は参考になります。

世阿弥と現代社会との比較

世阿弥は自分が演じながら、観客となって自分を見る眼を常に意識していました。またお客様からの批判をフィードバックして、「芸」を磨くための材料としています。つまり批判を創造のために活用しています。一方現代では、批判は、
・相手をだまらせる
・相手を排除する
・相手の価値を下げる
といったように、人格の攻撃に向かい、破壊的な目的を持つ場合が多くあるようです。この違いは何処からくるのでしょうか、考察してみます。

私の考えは2つです。
1.現代では何でもが自己表現になった。このため表現とその人とが直結する
芸術はかつては職人仕事でした。ルネサンス期や世阿弥の時代はその変わり目にありました。作品を作った人が名前を全面に出すようになると、作品とその人が同一視される方向になります。そうすると批判もダイレクトにその人に向かいます。特に現代は、実際は多くの人が共同で作っていても、だれだれの作品というようになる場合が多いです。その方がマーケットしやすいからです。現代は能天気に自己表現できることを賛美する傾向が強いですが、そうとはいえない面があるのを想像しようとしません。個人主義が行き着く先と言えるでしょう。SNSは特に典型的です。「誰もが自己表現者」になったわけですから、直接その人に批判が向かいます。これが作品に向かわないで、その人に向かうのは、自己表現故にその人自体を反映しているとみなされるからでしょう。作品はその人の全人格の反映ではありませんから、おかしなことですが、短絡的にそう思うようです。現実の現象は複雑ですが、単純で分かりやすいことが良い、という現在の見方も反映しています。

2.同じ文化・同じ場を共有していない
2026.06.05のblog「ストレンジアトラクターと現代社会2:サピエンス全史」とかぶりますが、現代では、「・大きな物語は解体されるべき ・真理は相対的 ・個人の価値観は干渉されてはならない ・共同体より個人が優先される」、という方向になりました。それ故、同じ文化・同じ場を共有しなくなる傾向となりました。他者はエイリアンというわけです。分からない存在を避け、攻撃するのは、人類が生きていくための生存戦略です。この傾向が現れてきていると思います。そして他者は分からない存在なのだけれど、評価は、お金であったり、SNSなら件数であったり共通なのです。分かり合えないが評価指標は同じ、これがまた攻撃性を助長していると思います。

私が思う対策は「ストレンジアトラクターと現代社会2・・・」で述べたのと同じです。「1.「残酷さをなくす」という倫理的連帯 2.公共性の場と、インフラ(道路・水道・教育・文化・医療)を維持するための連帯 3.地域性・歴史性・伝統等の文化的基盤を維持する連帯」 をベクトルとする「弱い連帯の相空間」を作ることが必要である。という考えです。

老人の捉え方の比較

世阿弥は、能にとって最も大切なものを「花」と呼んでいます。それは「新しいこと」、「珍しいこと」のことです。私は研究者でしたので、この観点から世阿弥を読んでおりました。そして「老骨に残りし花」というように、老人になってからの状態も高く評価しています。「全てがなくなったところに一輪の花が残っている。それは寧ろ、この花を残すために今までのことがあったと言えるのではないか」、そう考えていました。これに呼応するのが利休の「朝顔の茶会」の話があります。時代も登場人物も違いますが共通点があります。
秀吉が利休の屋敷の庭に咲く一面の朝顔が美しいとの話を聞き、見に行くことにします。屋敷にいくと、庭には一つも朝顔がありません。しかたなく茶室に入ると、床に一輪の朝顔が生けてあった、という話です。利休は前日に全て摘み取り、一輪だけ生けたのでした。一輪の花が持つ美しさを演出したというわけです。これは新しい朝顔の見せ方であり、まさに「花」と言えるでしょう。

世阿弥の有名な言葉に「初心忘れべからず」がありますが、この「初心」とは、一番最初の心ではありません。彼は人生には段階があり、少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消え、というように、人生は何かを喪失していく段階と捉えていました。しかし、喪失していく代わりにそれを乗り越えるために、新しい何かを獲得する必要を述べます。その段階段階に初心があるのです。昨日の私と今日の私は違う。これを知る前と、後の私は違う、これを感じる前と後の私は違う。このことが大切です。常に新しい自分を創り続けていることが「花」のある人生だと思います。そして老人になった時は、「老骨に残りし花」について述べています。老人になると、多くのことから離れ自由になります。この自由の境地に達するために人は歳を取ると考えました。自由になることで新しい何かを加えていけると考えていたのです。そしてこの考えは、「芸」は、死ぬまで人生をかけて完成させるものだ、という考えを作りました。これは、現代の働き方と大きな違いがあります。サラリーマンであれば退職後は第2の人生と言われます。スポーツ選手等は相当はやい段階で第2の人生を迎えます。世阿弥の考えでは、第2の人生などありません。定年退職となった私は、自由になるということを実感しています。この自由を活かして「花」を創り続けて行きたいものです。

まとめ

世阿弥は歴史上の特異点で興味の尽きない方です。禅とは真逆のアプローチをしながら、「自己超越」を果たします。また、「他者の眼」は現代では「人間疎外」へ向かうのに、彼の場合生涯にわたる「自己完成」に向かいます。また現代は老人は第2の人生ですが、そんな考えは毛頭ありません。自由を活かして「花」を創り続けます。このように、我々と同様に世俗で生きながら、現代社会と同様な問題に対して、全く違う答えを出します。世阿弥の生き方は「実存」を考えさせてくれます。

表紙の絵は、随分前にblenderのグリースペンシルを練習している時に作製した画像です。blendrは久しぶりの登場です。世阿弥と言えば「花」でしょう、ということで「花」の絵を選択致しました。

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