「構造と力」と「テクノ封建制」:欲望の変化

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はじめに

ヤニス・バルファキスの「テクノ封建制」を読みました。この本は利潤を中心とする市場資本主義が、地代(rent)を中心とするプラットフォーム支配へ変化した、と述べています。そして地代を得ているのが、現在の巨大IT企業です。彼らが、プラットフォームを所有する、それを使って人々が活動する、そこから地代を徴収する、そういう構造になったということです。具体的にはAmazonの出店料、Appleのアプリ税、Googleの広告収入、Metaのアルゴリズム空間への参入費、等です。プラットフォーマー達は封建時代の「領主」に近いという比喩です。書評等では、資本主義が終わりテクノ封建制へ移るかのように紹介されています。このためとても興味を持ちました。しかしまったくそのように思いませんでした。資本主義の中の話だと思います。しかし資本主義の在り方を揺さぶっているのは間違いないでしょう。
Monogokoroはポスト・モダン哲学の影響を受けています。ドゥルーズ=ガタリは社会構造として資本主義を語っており、これを浅田彰が「構造と力」の後半で紹介しました。「構造と力」はポスト・モダンの必読の書です。1990年代までは影響力を持っていました。この本の資本主義の話は秀逸で、今回これを紹介するとともに、欲望の内容が変わってきたことを述べます。そして、ドゥルーズ=ガタリは「人間は本来的に過剰を孕んだ存在だ」というのが前提としています。この過剰というのが、生きるために必要なこと以上の欲望のことです。「テクノ封建制」を読んだ後の考察で、これは本質なのか?と疑問に思いました。寧ろルネ・ジラールが述べている「人間は他人が欲しいものを欲しがる」が、資本主義を動かしている本質なのでは、と思いました。「人間は本来的に過剰を孕んだ存在だ」に対して疑問を感じたのは驚きでした。そこでこの内容を記録しておこうと思います。

「構造と力」における資本主義の構造の要約と「テクノ封建制」

「人間は本来的に過剰を孕んだ存在だ」ここから出発します。この過剰な欲望を人それぞれバラバラに働かせては収集が付きません。そこで、一定の方向へ動かそうとします。これが社会の発展の3段階で説明されます。そして3段階目が資本主義です。「脱コード化」と呼ばれています。そして過剰な欲望を一方向に向ける働きをしているのが、貨幣です。これを富まそうと働くモデルです。貨幣で欲望を満たすわけですが、その貨幣を更に再投資に使い、それによって、更に欲望を満たすループを作ります。過剰な欲望には切りがないため、このループを常に廻して行くのが資本主義です。これをクラインの壺で譬えています。クラインの壺の中には人それぞれの欲望が渦巻いています。それをクラインの壺の細くなった部分に吸い上げ一方向化します。これが貨幣です。そしてその細くなった管は、再び壺の下側面に繋がっています。これが再投資です。

この構造は「テクノ封建制」になっても何も変わっていません。だから資本主義の中の話だというのが私の捉え方です。では何が変わったのか、これについて考えてみます。結論から述べると欲しいモノが変わったのです。これまではモノとしての商品が欲しかったのです。だからこれを作り動かす、工場資本や金融資本が力を持っていました。今は物的生産ではなく、注意、関心、感情、といった欲望そのものを直接扱う段階になりました。これを世の中に訴えるために介在するのがプラットフォームのIT企業です。「テクノ封建制」はこれを扱った本です。ですので「資本主義の終焉」ではなくて、「資本主義の極限方向」です。確かに「地代」に注目すると封建制のように見えますが、「欲望の流れ」に注目すると資本主義のままです。こうして文章にして欲望が変わったことを認識すると、時代は変わったと思います。

「人間は本来的に過剰を孕んだ存在だ」は本質か

封建制という言葉から、中世のことを想像しますが、その時代の領主や王様は領土を広げる、領民から富を得る、等の過剰な欲望を持っていたと思います。シェークスピアの戯曲の大半はその話です。しかし大多数の一般の人々は、日々の暮らしに手一杯で、生まれながらに階級や職業が決まる時代に、過剰な欲望を持ち、実現するために実行していたでしょうか?そんなことはないだろうと思います。そう思うと、前提であった「人間は本来的に過剰を孕んだ存在だ」は人間の本質ではないでしょう(Monogokoroでは人の性質をテーマとしています。このため、こうしたことが気になります)。ではなぜ、クラインの壺の正のフィードバック構造ができるのでしょうか、それは欲望と社会の発展が螺旋状に相互作用して、寧ろ資本の増大を促すように、クラインの壺構造を作ったと考えます。欲望が欲望を作るクラインの壺構造は、欲望が欲望を作る作用によって作り出された構造です。そしてその欲望の元は、ルネ・ジラールが指摘した、「人間は他人が欲しいものを欲しがる」だと思います。ですのでこちらのほうが本質だというのがMonogokoroの意見です(ジラールについては、これまで何も触れてきていません、その内blogで扱いたいと思います)。

「テクノ封建制」による変化

Monogokoroでは非線形を多く扱っているせいか、「テクノ封建制」を読んでいて、非線形を感じました。なんでもこれに関係ずける必要はありませんが、触れておきたいと思います。
昔の広告は、「いいモノが作れました、この商品欲しいでしょう?」という提案でした。しかし、TikTokやInstagram, YouTube等は、自分の欲望を探索しながら形成していきます。つまり反応を見ながら、またアルゴリズムの提案に基づいて変更しながら、それが自分の欲望になっていくループです。プラットフォームを含めて欲望生成器官になっています。昔は、主体が欲望するか市場が欲望するか、であったわけですが、主体の行動がプラットフォームのアルゴリズムによって左右される、そういう新しい構造になっています。このフィードバックにプラットフォーマーが介在するのが従来にない点でしょう。これもクラインの壺的です。そしてこのことは、主体が欲望を作っているとも言えますが、プラットフォーマーが作るアルゴリズムによって、欲望が誘導されている、とも言えます。そしてたとえ誘導されていても、本人の欲望のように思うでしょう。これは微分方程式の軌道は、大地によって決まるわけすが、その大地は微分方程式の動きによって少しずつかわっていく、つまり微分方程式自身が変化を受けていることに相当します。この系はTouchDesignerで作ろうとしている系ですが、まだ作れていません。現実の世の中のほうが先にできてしまった感じです。この系には不気味さが伴います。アルゴリズムは「これを欲望しなさい」とは命令してきません。代わりに、貴方の欲望空間の地形を変形してきます。このため知らない内に、軌道は探索しやすい谷に流れていきます。資本主義といった大きなテーマでいうと、確かに新しい統治の仕方に繋がるでしょう。「テクノ封建制」は封建制の話よりも、欲望空間のトポロジーを知らず知らずに変えてしまう危険性を指摘するべきです。

まとめ

「テクノ封建制」を「構造と力」にでてくる資本主義の構造から眺めました。「テクノ封建制」は資本主義に代わるものではなく、資本主義の中の新たな形態だと考えます。しかし、社会形態を考える元であった、「人間は本来的に過剰を孕んだ存在だ」は、そうではないように思いました。寧ろ資本主義のクラインの壺構造は、過剰を生み出す構造であるように感じます。「テクノ封建制」は、「これ欲しいでしょう?」から、あたかも主体的な欲望を作っているように見えます。しかしそこには、プラットフォーマーが作るアルゴリズムがあり、誘導されている可能性はあります。これは軌道を作る大地を軌道からフィードバックして大地を変形していく非線形現象のように見えます。この危険性は解決されるべき課題のように思いました。しかし一方で、「人間は他人が欲しいものを欲しがる」が欲望の元であるように思えます。そうすると、現在の状態は欲しいモノが変わったことによる変化と捉えることもできます。それならば欲しいモノは今後も変わり、また別の形態へと変化する可能性があります。

表紙はAI Copilotに描いていただきました。クラインの壺を中心にして、背景に複数の領地から材料を一か所に集める封建制を示す図を描くことを要望しました。このblogも読んでもらっています。一段と性能が上がった気が致します。

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