はじめに
「純粋」はMonogokoroのテーマの一つです。その中でも純粋経験は2025.10.24「純粋経験のオートポイエーシス的解釈」、2026.06.22「「純粋」の考察3:純粋経験再び」、で主題として2度取り上げてきました。先日漆器の展示を見学したのをきっかけに、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を思い出し、それから続いて、宮沢賢治の「風の又三郎」や、中原中也の「サーカス」を思い出しました。それらについて考えていると、文学も純粋経験と言える場合があるし、それはスポーツやコンサート等で体験する一体感からくる純粋経験とは違いがあることを見つけました。そしてその違いは文学の特徴ではないかと思ったのです。今回の内容はジェームズの純粋経験や西田幾多郎の純粋経験とも違っています。いよいよ哲学っぽくなってきたと感じた次第です。
文学の純粋経験:陰翳礼讃
谷崎潤一郎は、触感をはじめ感覚に非常にするどい、あるいは関心を持っておられた方のように思います。彼の小説には、文字になりにくい触感や感覚を描写する表現が多くあります。触感を表現する小説家です。今回取り上げる「陰翳礼讃」もその一つです。そして表現力が突出しておられ、読み手が体感しているように感じさせます。通常小説を読むと、「文字ー>意味理解ー>情景ー>感覚」となると思いますが、「文字ー>感覚ー>情景ー>意味理解」のように、感覚に訴えることが意味理解より先にきます。谷崎潤一郎の小説が何故そうなのか、私には分析できません。体験としてそう感じさせる稀有な小説家です。漆器の展示を見て「陰翳礼讃」を思い出したのは、もちろんこのエッセイの中に漆器のお椀の話があるからです。漆器は今のような明るく何でもはっきり見える光りの中で、料理を盛るように作られていないと言います。昔のろうそくの光で暮らしていた時代に適用するように作られた器です。薄暗いゆらゆらと揺れ、陰を作るろうそくの光の中で、赤や黒の漆器のお椀に汁物が盛られ、両手でその重みと暖かみを感じながら、何が盛られているのか輪郭がぼやけ明確にならない状態で、その匂いを感じる。そいういう状況の良さを礼讃されています。漆器のお椀は包んだ手の延長となり一体となっています。料理とお椀と中身が明確にならない、そしてお椀と外も明確の見えない感じの中で、重みや暖かみと匂いを感じ、ろうそくの明かりが示す雰囲気全体の中にいるのです。全体が一体となっている感じです。この状態は純粋経験です。私と漆器が、手と漆器は一体となっており、主客未分の状態です。そして薄暗く揺らぐ光の中で、どこまでがお椀でどこまでが料理なのかぼやけ、またどこまでが手なのか明確に指し示し別けることができなくなっています。そういう雰囲気が陰翳にあることを礼賛しているのです。純粋経験が成り立ちやすい環境と言えるでしょう。純粋経験が成り立つ状態は、主客未分と、言葉あるいは指し示すことで分割できない、ことが条件です。陰翳と漆器が作る雰囲気はこのどちらにも適しています。更に小説の場合、主客未分には、私が本を読んでいるという意識がなくっていることも必要です。主人公の追体験をし、没頭している状態です。
展示の漆器を見て家に帰って上述のようなことを考えていると、実際に私が「直接体験した事柄だけでなく、小説における追体験の中でも、純粋経験が成立している場合があることに気が付きました。
文学の純粋経験:風の又三郎、サーカス
「陰翳礼讃」が私を純粋経験に誘ったと思っていると、他にもそういう場合があることに気づきました。例えば、宮沢賢治の「風の又三郎」と中原中也の「サーカス」です。宮沢賢治の「風の又三郎」から見て行きましょう。
「どっどどどどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう」
これも、空間全体の雰囲気を示し、広がりがあり、動きがあり、読む側はそれ全体を感じさせ、分節できません。読んでいる私ではなく、この空間にいる私を感じたなら、純粋経験と言えるでしょう。分析するなら、「どっどどどどうど どどうど どどう」は何を指し示すのか分からない。これは意味ではなりません。全体で、リズム、広がり、運動を受け取ります。「陰翳礼讃」と同様、意味理解より先に感覚がきます。
中原中也の「サーカス」も同様です。
「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」ですが、意味理解より、揺れ、浮遊感、サーカスの空気、ブランコの運動、等が身体的に感じられます。「サーカス」の詩全体にリズムがあります。
言葉が意味内容でなく、経験を直接起こす装置となっています。これも純粋経験を誘います。
これらの2つの例は、「陰翳礼讃」と違ってオノマトペです。こちらは、最初から意味や分節がわからないので、読む側に、場や空間を感じさせる効果が出しやすいように思います。つまり、風の中にいる私、サーカスの揺れの中にいる私、になりやすいと言えるでしょう。文学が純粋経験を誘発しています。
文学の純粋経験の特徴
以上なような文学の純粋経験について考えた後、これは他の純粋経験と違うところがあると思いました。わかりやすいのがスポーツ観戦です。スタジアムでスポーツを見ていると、他の応援の方々との歓声や熱気、試合展開が一体感を生み、興奮し、主客未分に成る場合があります。このスポーツ観戦は主客未分の説明によく出てくる例です。しかし帰宅してあるいは、何日か後に思い出すと、凄かったとか、楽しかった、等の印象は思い出しますが、熱狂そのものは再現されません。観戦した経験は過去の出来事として記憶されています。これは経験の内容を覚えているのであって、経験の場に再び入るのではありません。
ところが、文学は(詩も含めて)、ろうそくの光の中で漆のお椀で吸い物を飲む風景、「どっどどどどうど どどうど どどう」、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」を思い出すと、その空間の感覚が再び立ち上がります。そして面白いことに、それは初めて読んだ時よりも、深く思い出すというか、深くその空間にいることを感じる場合もあります。これが違いです。言葉は恐らく経験を発生させる、あるいは再生する装置としての働きがあるのでしょう。スタジアムで感じたのは身体的な体験でこれは状況を思い起させることになるのでしょう。正しいかどうかわかりませんが、記憶の仕方が違っているのではないでしょうか。文学の純粋経験の特徴としては、文学は経験を再生成する媒体なる場合がある、ということです。これは希少な媒体です。
純粋経験は、その時というイメージが強い概念です。その時体験し、それが言葉によって分節されると理解に入り純粋経験は終わります。しかし文学では、最初に読んだ時は種で、その後の人生経験によって意味が育つこともあります。その結果、数年、数十年後に、その作品がより深い純粋経験を開くこともあるでしょう。これは、これまでの純粋経験では説明が付かない現象です。その作品は純粋経験のきっかけとなって、より深くなった私の何かを引き付けて、新しい純粋経験を作って行く場合があるのです。
スタジアムの純粋経験と文学の純粋経験における記憶の違いは、研究すると面白いと思います。
相空間的解釈
純粋経験を相空間のアトラクターと解釈すると、説明できるのではないかと思いました。優れた文学は情報というより、「引き込み構造」即ちアトラクターを作ると解釈しました。「どっどどどどうど どどうど どどう」を思いだすと、アトラクターが作動し、その時の私の状態に応じて、引き込まれる内容が変わってくると解釈します。私の変化に応じてそこにある材料は変わっているため、引き込まれ体験する純粋経験も変わって行きます。またあるいは、アトラクターが自身の変化に応じて強くなり、引き込む範囲を広げているのかもしれません。いずれにせよ、再び思い出した時、より豊かになっている、そういう構造ができる場合があるというのは、素晴らしいことです。
まとめ
純粋経験は分節以前、言葉以前、というイメージが強い概念です。しかし文学は、一度言葉になったものが、再び純粋経験を体験させます。しかも、年齢を重ねる程、広くなる場合もあります。単なる文章であったものが、ある時突然、空気になり、光になり、風になり、人生に触れます。なんて詩的なんでしょう。文学をアトラクターとしてみる解釈も全体を説明するのに適しているように思います。
表紙の画像は、随分前に作製した画像で、どのようにして作製したのか思い出せません。レーザーで交差する道路をスキャンした図から作製したのは覚えています。動きが闇のなかから浮き上がっているように感じます。青い道路が蛇にようです。レーザーでスキャンした図は、黒い背景に光の線で描かれた静的で、何も動きの無い画像でした。それが、何かわからないがリズムと動きが急に現われ引き込まれた感覚がありました。この図はそれを思い出させるアトラクターの作用を私に対しては持っているようです。

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