はじめに
「純粋経験」については、2025.10.26のblog「純粋経験のオートポイエーシス的解釈」や、2025.02.19の「「純粋」の考察1」等で紹介しています。これらではジェームスの「純粋経験」について述べております。過去2度、西田幾多郎の「善の研究」を読みました。一回目はまったくわからず、2度目は「ジェームスに似ている、また、ウパニシャッド哲学をまとめている」、そういう印象でした。日本の哲学の第一人者として語られることが多いわけですが、何が凄いのかわかりませんでした。その後も気になっていたのですが、ずっとその状態でした。最近、道元や良寛の禅僧をblogで扱ったせいか、何か違うような気がしてきました。そこでジェームスの「純粋経験」との違いを考察してみます。私にとってはようやく、西田幾多郎の凄いところに気づけた気がしました。
ジェームスの「純粋経験」の要約
まずジェームスの純粋経験を要約しておきます。主客未分の状態を指しています。そして彼にとって「純粋経験」は主客未分状態の素材です。経験によって与えられ、その後私が分節します。ここには「経験を冷静に観察する目があり、そこから分節するのは私です。そして純粋経験が成立しているのは割と短時間です。音楽でいうなら、ノリノリで音楽に合わせて体が自然に動くような状態は「純粋経験」です。その後「あ、今夢中になってた」と気づくと、純粋経験は分節され終わりになります。
西田幾多郎の「純粋経験」
西田幾多郎の「純粋経験」をずばり言葉で表すことは難しいです。そこで比喩を考えました。それは植物の根が広がっている様子です。根自体は夢中に水や養分を求めて広がっていきます。石や堅い土の層、柔らかい土の層を体験しながら、ひたすら伸びていきます。この状態は「純粋経験」です。勢いを持って進む統一です。後から人が見ると、根は本来このように下へ横へ、水と養分を求めて広がっていくものだ、と客観的に言うことができます。しかし根自体は、その都度体験によって自然に方向を決め進めているのです。つまり、「「純粋経験」の連続がその根の在り方を決めていっている」、ということです。禅僧の場合は、常に「それになる」ことを目指しています。それとは自然と一体になるでもいいし、仏の振舞を真似ることで仏になる、ということでも構いません。この態度が自然にできるように修行されていると考えれます。その時その時、それになって動く態度は、根が状況を体験しながらある方向に伸びて行くことに類似しています。後からいうと、それは水と養分を求める働きによって、こんな形になりました。ということはできますが、根や禅僧にとっては、最初からこんな形があるわけではなく、自然にそうなっていくモノなのでしょう。言葉でまとめるなら、「経験そのものが自己展開し、統一して自分を創っていく働き」、と言えるでしょう。生命的な印象があります。ジェームスの様に「短時間で終わり、観察する自分がいる」というより、「純粋経験」の継続が自己を作って行きます。
単純な生物や植物の根との違いは、これらは言わば「純粋経験」しかない生き物です。人間にように様々なことができ、様々なことを考えるようになると、分節して見ることは必須です。分節して見る能力を持つ人間が、「純粋経験」に戻るということも在ると思いますが、もう一方の道は、分節を超えて「純粋経験」に至る道も在るのでしょう。円環の構造になっていて、左周りと右回りがあると思います。分節を知った上で、「純粋経験」に入るほうが、勿論深い純粋性があると思います。つまり「純粋経験」は「単純さの果て」と「複雑さの果て」が出会う場所です。
この姿勢は、プログラムを体験として捉え、その体験から次どうするのかを決めていく、Monogokoroの姿勢とも重なっています。数十年を経てようやく西田幾多郎に共感することができました。
次の図は、アルゼンチンのバイアプランカの写真です(https://colorpea.com/spotlight/1502)。たまたまパソコンの背景画面にでてきました。この水域の川の形は、水が(川が)、土地の状況や天気、人間の治水の思惑等を体験することによって、自ずから作りだした造形のように見えます。水を擬人化するならば、「純粋経験」の連続が作っていると言えるでしょう。

まとめ
ジェームスは、経験という土壌があり、そこに主体が後から線を引き分節させます。一方西田幾多郎は、根がその時その場所の状態の経験により伸びていくように、経験が自己を形成していきます。経験と主体は同じ生命の働きの中にあります。この「生命的な自己形成」という視点はジェームスにはありません。「純粋経験」は「主客未分」と伴に語られることが多いですが、「主客未分」と一言でいいますが、その在り方は様々あるのでしょう。
「純粋経験」は、道元や良寛の態度とも響きあっています。Monogokoroの態度もこうありたいものです。
表紙の画像はイチジクの木です。イチジク農家へ行った時に写真を取りました。これは根ではありませんが、木がうねうねしながら、横方向に伸びていく見たことのない木でした。「生命的な自己形成」という言葉から思い出しました。気候や環境、手入れの状況を木が体験し、無心に伸びようとしている生命力が実体化した形のように思います。ただ人間は分節する能力は必須です。分節を超えて円環のように「純粋経験」に至る道があるのでしょう。

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