はじめに
量を増やしていくとある時点で質が変わる現象に興味があります。これは非線形現象であり、相転移です。Monogokoroで扱ってきたのは、2025.05.19「「量と質の変換1」 L-system及び+Conwayの例」で、木を描いており、その数を増やすと獣皮に見える、ことを述べています。また「「映像の相転移1」と「量と質の変換2」」では、空間周波数と凸凹を同時に変えることで、氷の大地ー>海ー>砂漠と見え方が変わる場合があることを述べました。また最近では粒子を使って軌道を描いています。この場合、粒子一つでも軌道を描けますが、何を描いているのかは分かりません。10000個程度にし、初期値がばらばらだと、すぐに軌道が明確になり全体像がつかめます。これらは感覚の相転移の話です。また2025.06.06「プロシージャル1 「諸法無我」」では、電子回路がトランジスタ、抵抗、コンデンサ、インダクタンスの組み合わせで、ほとんど無限の機能を作れることを述べています。これは数と組み合わせの関係性が本質的だと主張しました。学校では、要素について学び、後はこれを増やしていきます、とか、これらを組み合わせるとできます等と、要素を集めると全体になるかのように学びます。そこには非線形性や相転移を想定していません。現実の劇的さは、非線形や相転移にあり、これを除外するのは現実とまったくかけ離れた話です。「量を増やすと質が劇的に変わる」これこそ本質です。このことで世界中を大きく変えた代表が、半導体のスケーリングと、そして現代はAIのスケーリングでしょう。先日AI Copilotとこの議論をし、AIの進展が半導体と似ていると思ったこと、それならば、生物を真似る、脳を真似る、オートポイエーシスを真似て実体として作製する、というアプローチより、現実的にはAIの進展によってそう思えるモノが先にできるのではないか、という話をしました。AIもそう見ていました。このように、非常に困難だと思える事柄がAIによってできてしまうなら、自分達が考えていることが、どういう位置付けになるのだろうと思わざるおえません。それは私自身がこれまで破壊的な技術、つまりそれまで何十年と費やしてきた研究が、ある技術の登場によって、一気に陳腐化することですが、それを数回は見てきたし、2度経験してきたからかもしれません。私の結論は、2026.03.31「プログラムと身体性の関係」と同じす。プログラムすることが体験となり、身体化することに意味を見出しています。
半導体のスケーリングとAIのスケーリング
半導体のスケーリングはムーアの法則と呼ばれています。これは「トランジスタ数は約2年毎に2倍になる」という経験則です。現在はこれより鈍化しています。例えば昔のマイクロプロセッサを考えると、数千トランジスタの頃は、論理ゲート、カウンタ、レジスタ程度です。ところが数十億トランジスタになると、OS、ネットワーク、CAD、シミュレーション、画像処理等、全く別の世界が開かれました。インターネットもクラウドも半導体技術があってこそです。個々のトランジスタの役割は昔と同じスイッチです。それなのに集積度がある臨界点を超えると、質的に新しい機能が現れます。相転移です。
「トランジスタ数ー>演算能力ー>表現能力ー>実現可能なアルゴリズムー>知的機能」と進化したと言えるでしょう。
AIでも同じことが起きています。Copilotによると、LLM(Large Lanuage Model/大規模言語モデル)では、小さいモデルは、算数ができない、推論ができない、翻訳ができない、そういう状態でしたが、規模を増やすと突然、多段推論、プログラミング、要約、抽象化、などが可能になったそうです。スケールを大きくすると扱える問題の質が変わったことは明らかです。これを階層化すると、「パラメータ数ー>データ量ー>計算量ー>内部表現の次元ー>世界モデルの複雑さー>推論能力ー>知的行動」になります。
つまり、微視的な要素は単純です。トランジスタはスイッチだし、ニューロンは重み付け加算です。しかし数が増えることで、システム全体の相空間は巨大化し、新しいダイナミクスが可能になります。非線形性的に述べると、自由度が増えて、相空間に突然新しい安定構造が出現すると言った感じです。
最近のAI研究では「知能とは何か」を説明する際に、単純なユニットの巨大な集積が、あるところから知的に見えるのは何故か、というスケーリングの問いが中心になっているとのことです。「半導体でムーアの法則が計算機に対して果たした役割を、情報が増えるスケーリング則となり、知能に対して果たしている」と見ることができます。
AI研究のアプローチ
昔のAI研究には、生物を真似る、知能そのものを作る、という夢を持っていました。恐らく2000年代ぐらいまでは、どちらかというと、このアプローチが寧ろ主流で、脳の仕組みを再現する、神経回路を模倣する、生物や人の発達を再現する、生命らしさを再現する、という方向に期待がありました。オートポイエーシスや人工生命(A-Life)の研究はこの流れです。そして私もこの傾向を持っています。しかしこの方向は、いつも「生命を模倣すると生命の複雑さに巻き込まれる」という問題に直面します。例えばオートポイエーシスを真面目に実装しようとすると、境界の形成、自己維持、代謝、環境との相互作用、自己参照、等全てからみます。結果として非常に面白いですが、工学として進歩が遅くなるのです。その結果社会実装も大きく遅れます。私もオートポイエーシスの話をしていますが、こうした中のさらに一部の特徴を扱うだけにしています。これら全体で生命ですというアプローチでは、いづまでたっても社会実装は無理でしょう。
一方、LLMは全く違った工学的アプローチを取ります。こんなのでいいのか、というぐらい乱暴です。「生命を作ろう」、「脳を真似よう」等と考えていません。そうではなく「地球上のテクスト全部読ませよう」というような発想です。これもまた壮大ですが、行うことは「生物を真似る、知能そのものを作る」アプローチに対して単純化されており、工学的に実現可能なアプローチとなります。そして結果的に、言語能力、推論能力、抽象化能力、計画能力、と言った人の知的脳力が次々と出てきました。こうなるともはや、「知性は生命だけが生み出すことができるというのは、間違っていた」と言ってよいかもしれません。
AI研究者の多くは、昔は「知能とは何か」から出発したことでしょう。しかし実際にブレークスルーを起こしたのは「重み付け加算のスケーリング」だったのです。これは半導体のスケーリングと合わせると入れ子構造になっています。AIが行っている情報処理のスケーリングは、半導体のスケーリングの恩恵を直接受けています。これは指数関数的な増大が半導体とテクストを読ませるためのスケーリングの2つが掛け算で起こっていることで、膨大な効果をもたらします。生命を理解してから知能を作る、のではなく、計算資源を増やして知能を先に獲得しているのです。
このアプローチが人間がしていることと全く違うやり方かというとそうでもありません。例えば、生命とは何か、命とは何か、それを知らずして子供を作っていいのか、等と主張するなら、子供は一人も生まれません。だから滅びます。そんなことを全く知らなくても、人類は子供を作り、育て続けてきたのです。生命とは何かそんなことは全く知らなくでも、生んで育てることが方向であったのです。武家社会なら家のために、明治以降敗戦までは国のために、そういう概念で何でもが方向付けられていたように思います。理想的な国家像がわかって設計したのではなく、無数の社会の在り方を歴史が試していると言えるでしょう。これは「テクスト全部読ませよう」といった一つの方向と似ています。頭でっかちになると、原理を理解する ー> 設計する ー> 実装する、と思いがちです。しかし自然は、とりあえず動く ー>生き残る ー>後から説明が付く、ではないでしょうか。それでは、脳の仕組みを再現する、オートポイエーシスを実装する、といったアプローチが無駄になったかというと、そうではありません。一つは倫理観です。暴走をくいとめる働きになるでしょう。また技術的には、一つのことを最適化するのは(この場合は世界の全てのテキストを読むですが)、いつか限界がきます。全てを読んだら終わりになるからです。その時生命研究は次の手を示すことになると思います。
Monogokoroのアプローチ
Monogokoroは今回の議題のようなだいそれた考えで行ってはいませんが、第三のアプローチを取っています。それは「体験を通じて身体的化することで直観を磨く」ことです。要約するなら「体験しながら作り、作りながら身体的に理解する」ということです。「プログラムと身体性の関係」で主張したことと何らかわりません。TouchDesignerのようなオブジェクト指向のビジュアルプログラムは、何と言っても体験的です。これが最大の特徴で実験しているような気分でいます。このため身体性を伴いながら理解し同時に作製していきます。これはプログラムを通じて自分自身を作って行くシステムです。プログラムを実装するという現実的な観点では、それができかつ、AIがコードを書くことができるバイブコーディングの発展が見込まれる言語のほうがはるかに現実的です。「体験しながら作り、作りながら身体的に理解する」の重要な点は、今回の「知能そのものを理論的に解明して再現しよう」と「とにかく大量の知識を蓄積して能力を獲得しよう」と比較して、第3のアプローチが問題解決にどう役立つかということです。これは、人間が絶望しないで長く続け、持続の中から解決方法を見つける、というメリットがあります。「知能そのものを理論的に解明して再現しよう」も「とにかく大量の知識を蓄積して能力を獲得しよう」も、突き詰めると、できる/できない、の話です。これは人間の精神がもたなくなります。AIが勝手に進展するのならいいじゃないかと思うかもしれませんが、人間はそのAIと競争しないといけません。「体験しながら作り、作りながら身体的に理解する」は、今の自分を作りながら、今できることをすることになり、自分自身が変化していることの実感が重要です。他人やAIとの競争ではありません。昨日の自分より今日の自分が少しわかった。今日の実験から新しい疑問が生まれた。その疑問を追いかけてまた作った。これが前進になるからです。そのかわり、長く継続しないと結果がでません。現在のシステムは一般に「最も効率的な結果を得るにはどうするか」を中心に作られてきました。しかし人間は機械ではありません。人間が継続していく、ということを前提にしたシステムにしないと、疲弊します。論文をかく、製品を作る、お金を稼ぐ、これらは現代の成果ですが、見方が変わる、感覚が変わる、判断が変わる、発想が変わる、といった、自分自身の変化の蓄積によって、次の転換に至るフィードバックのほうが、人間が長期的に価値を出し続けれるように思います。
まとめ
半導体のスケーリング(スイッチのスケーリング)、AIのスケーリング(重み付け加算のスケーリング)ときたわけですが、そして恐らく社会に決定的に影響を与えるスケーリングはまだあるのか、また半導体のスケーリングはAIの入れ子になっているので、同様にAIが入れ子となる新たなスケーリング構造があるかもしれません。あるいはAIが最後になるのか、今はだれも知り得ません。
今回、「知能そのものを理論的に解明して再現しよう」と「とにかく大量の知識を蓄積して能力を獲得しよう」と比較して考察しました。現在は「とにかく大量の知識を蓄積して能力を獲得しよう」としてきたAIの勝利と見えます。しかし「知能そのものを理論的に解明して再現しよう」のアプローチも倫理や知識の蓄積が飽和する時に重要になると考えました。そしてMonogokoroでは第三の方法、「体験しながら作り、作りながら身体的に理解する」を取っていることを述べました。自身の変化に展開をみつけ、他者やAIとの競争に巻きのまれにくいというのが特徴です。効率よく成果を出すことより、人間が長期的に価値を出し続けれるシステムのほうが、継続することで結果的には成果も得られる場合もあると思っています。

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