はじめに
Monogokoroのホーム画面の検索に「現象学」と入れると、本件を入れて7件ヒットしました。現象学については、その時の話題に関連付けて話していますが、正面から扱ったことがありませんでした。先回の「相転移に対する解釈の考察」で、「科学と哲学の層の違い」について述べましたが、ここでの哲学の代表は現象学のことでした。そこで、一度「現象学」を主題にして書くべきだと思った次第です。
哲学では多くが、始めた方の名前で呼んでいます。現象学はフッサールが創始しましたが、フッサールと呼ばず現象学と呼びます。これはフッサールがこんなことを言ったというより、物事を探究する方法論であり、態度だからだと思っています。この態度は、ハイデガーやメルローポンティをはじめ、多くの方々に影響をあたえました。
私は哲学の分野では、ベルグソン、ポストモダン、ブッダ、オブジェクト指向存在論、そして現象学の影響を受けています。後でコメントしますが、特にMonogkoroを書いている態度は現象学的だと思っています。
現象学
現象学は客体がそもそも本当に在るのかは分からないというところから出発します。現代ではVR技術があるので実感しやすいでしょう。そこに在ると思っても、実際にはVRで見ているということを体験できます。人が認識できるのは、本当にそこに在るということではなく、それが意識に上がっている事柄です。だから実際の対象や現象ではなく、意識に上がっている対象や現象について考えていこうとします。
目の前にリンゴが在るという場合に、それはVRで見ていてほんとはないかもしれません。食べておいしいと感じた場合も同様です。夢で食べたのかもしれません。人の客体に対する意識はこのように曖昧です。このことを疑問視せず、実在していると信じてそれを調べる態度を自然的態度と言います。やや批判的にいうなら、科学はこの自然的態度です。同様な態度は他にもあります。例えば偉い方がこのようにおしゃっていた、とか、こういう話を聞いたことがある、とか、本に書いてあった、といった類を疑問視せず本当として受け止める態度です。こうした自然的態度及び言説を一旦横に置いておいて(これをエポケーと言います)、自分の意識に上がったことに対して、体験したことに基づいて、対象や現象に迫っていこうとする態度が現象学です。
現象学では、リンゴを見た時に、それがVRなのか、夢なのか、実際にあったのか、それは問いません。意識に上がったことについて考えていきます。何故意識にあがったのか、リンゴを見て赤いという特徴を意識した場合、リンゴの無限にある状態、匂い、光方、触感、・・・そしてこれらは、場所や時間によって刻々と変化しているわけですが、何故赤いということに注目したのか、その構造を問います。志向性が赤いということに向き、そこから赤いリンゴの刺繍がほどこされた服を思い出したとか、そういうことに至る構造に目を向けます。現象学では現象学的還元と言う言葉を使います。還元と言う意味は、元に戻すという意味です(例えば、利益を社会に還元する、といったりする時の還元です)。それでは元とは何か、ということですが、例えばリンゴは赤いという言説を一旦置いておいて(エポケー)、意識に上がったリンゴを見ます。そして赤いということを意識したとします。何故私は赤いに意識が向いたのか、リンゴの刺繍を呼び起こしたのか、それを可能にしている構造が元になります。自然的態度をエポケーして構造に戻ることを還元と言っているのです。そしてこの現象学的還元の態度を超越論的といいます。つまり自然的態度に対して超越して志向性の構造を見ることです。この態度は体験と結びついています。触った経験があるから、「触れれるはずだ」という予測ができます。食べた体験があるから、「食べれるはずだ」と予測できます。このように体験に根差して予測させる構造が、志向性を立ち上げます。体験は志向性を立ち上げる背景であり、その構造によって立ち上がります。
モノや現象を客観的に見る態度と主観から見る態度が在ると言っているのではありません。現象学では主観的に見る態度の中に客観も含まれます。テーブルがそこに客観的に在ると思ったとして、確かにテーブルの板が見えています。そして足も1本見えています。しかしこれがテーブルだと思うのは、経験的に見えていない残り3本の足を想定しているからです。テーブルが傾いていないと予測したからです。つまり客観的にあると思ったものでも、そこには経験や体験から予測したことが暗黙に含まれているのです、この暗黙を含める構造が支えています。ですので主観的な見方の中に、客観と言っている見方も含まれます。
私がMonogokoroで紹介しているのは、人工生命であったり、場の概念であったり、相空間であったりしていますが、これらは実体としてこれだというようなモノではありません。プログラムの結果画面上にあり、それを認識している在り方です。つまり「現れ」です。そしてプログラムをインターラクティブに書くことや、パラメータを変えたりすることで現象を体験していきます。これは本当に存在しているのかというようなことではありません。そしてその体験の中で志向性が立ち上がり、これはどう解釈できるのか、工学的に役立つのか、次は何を書こうか、等と考えていくのです。これは現象学的な態度です。
私がMonogokoroでしていることは、現象学と相性がいいように思っています。「現れ」を扱うことが基本にあるからです。しかし私はエンジニアです。最後はどうしても実際に触って動かすモノに戻したい気持ちがあります。還元と言う言葉を使うなら、「工学的還元」と言えるでしょう。ここが現象学と工学との違いだと思います。そしておそらく、現象学と工学、広くいうと哲学と工学を遷移することが、Monogokoroの特徴だと思っています。これは2つのアトラクターを持つストレンジアトラクターの臨界点のようなものです。行き来したり、分離したりするのです。
まとめ
現れに対して背後に、究極的なモノがあり、何らかの法則があると考えるのが、科学的な見方でしょう、「事」に対して、背後により細かな「事」と「理」があるとする態度です。そしてそれらを「客観的」だとしています。現象学は更に深くもぐっています。「事」や「理」を支えているのは、体験と結びついた構造であると考えます。客観を支えているのも人間の持っている構造だと、どんでん返しをします。
今回の表紙は、現象学を理解しようとして作成した俯瞰図です。勝手に書いたもので正しさを主張する図ではありません。現象学は多岐にわたる関連があるので、自分がこの部分に注目しているな、とか、ここを忘れているな、とかを意識するための個人的な図です。哲学の話題は表紙を書くのが難しく、適当な図を思いつかなかったのです。そこで以前書いていた図を活用した次第です。

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