フィードバック概論2:プロセスと構造

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はじめに

先回のblog「フィードバック概論:概念の拡張」では、フィードバックの段階を述べ、サイバネティックスが、機械だけでなく、人や生物、目標に対してもフィードバックの概念を拡張したこと、また「人とモノとのコミュニケーション」では、人が勝手に解釈するとことを利用したフィードバックの活用であることを紹介しました。そしてオートポイエーシスは、自分自身を創り続けるフィードバック、つまり完成形があるのではなく、プロセスとしての在り方を示していることを述べました。そして生成消滅する粒子の軌道を描くプログラムが、プロセスを示している点で共通していることを指摘しました。フィードバックの概念が、モノだけでなく、人とのコミュニケーション、社会システムに拡張されて行きます。こうしたフィードバックが装置以外に拡張する、哲学的な側面を述べた方に、サイバネティックスでウィーナーと伴に有名なグレゴリー・ベイトソンがいます。ウィーナーが科学的・技術的であるのに対し、ベイトソンは哲学的です。技術的にはサイバネティックスは、先回呼べたように、機械と生物を結ぶフィードバックですが、ベイトソンが主張したサイバネティックスは、家族関係、文化、学習、精神病理、認識論といった、非常に広い範囲を想定しています。オートポイエーシスの考えを利用して、後にルーマンが社会システム論を展開しますが、サイバネティックスにおいて、すでにそのような広い範囲へのフィードバックの適応を述べています。私がベイトソンを学んだのは、「生命とモノとの違いは何か」ということに対してです。最終的にはオートポイエーシスに着目し、技術的に取り入れようとするのですが、その前に学んだのがベイトソンでした。彼は「精神の定義」を6つの条件に要約しています。当時はこれを真似た何かを作製したいと思っておりました。今思えば、彼は人間の精神が”何々だ”と言っているのではありません。それに気づかなかったことが、当時上手くいかなかった原因だと思います。Monogokoroの解釈では、ベイトソンにとっての精神とは、「頭の中に入っている何かではなく、関係が持続的に生成されるプロセスそのもの」です。それが如何に成立するのかを述べたものが、「精神の定義」だと解釈しています。彼はサイバネティックスを探究する中で、すでにプロセスについて述べていると思います。そう思って読んだほうが、彼の「精神と自然」が理解しやすいと思います。今回はベイトソンを切っ掛けとして「プロセスとは」について考察致します。

Monogokoroのプロセスの考え方

Monogokoroでは体験を重視しています。体験は、行う・出会うことで始まり、行った・出会った後で終了・消滅します。そして、手に持ってこれだというようなモノは残らず、心・精神に無形に残ります。そしてその後の暮らし・在り方に、背後から影響を与え、時に現在の行為・行動に対して、身体が動くことで、またイマージュとして影響を与えます。これはプロセスの在り方で、生成消滅と背後の無形の持続が特徴です。人はよく、精神とは何か等に対して、”これです”というような解答を求めますが、生成消滅の連続あるいは断続で発生し、背後で無形の持続として作用する対象に対して、”はいこれです”、と指し示すことはできません。Monogokoroではこれをなんとか、視覚的に固定してそれを介してイメージを呼び起こしやすいようにすることをテーマの一つにしています(プロセス絵画やナラティブ・パッケージのテーマがこれにあたります)。「人とモノとのコミュニケーション」は、人がモノに何かをするとモノの応答が変わることで、人が思うことが変化する持続です。こうしたテーマはプロセスという点で共通しています。悠久の時間を対象とする歴史や地質学的なスケールで見ると、全ては生成消滅しその存在は物語となって行きます。このように、プロセスは生きるスケールと関係した概念でもあります。

Monogokoroではすでにプロセスについて何度も議論しています。先回のブログで取り上げなかった内容で主なものを少し振り返ってみましょう。
2025.07.21のblog「プロセス絵画1」では、プロセスの代表として音楽の例をまず挙げています。音楽は曲が始まる時に生成し、曲が終わることで消滅します。そして途中は前の音と今の音が結びつく持続の働きによってメロディとなります。ベルグソンは持続の概念の説明に、音楽を挙げています。クルマの走行も運転し始めて終わるという生成消滅があり、その間、前の状態と関連しながら風景が変わります。運転が終わると終わるわけですが、この間の形にならないプロセスを残す方法はMonogokoroのテーマの一つです。

2025.11.20「持続:予測と違う未来の捉え方」では、音楽の話を再び述べていますが、その他にもベルグソンが未来予測をしないのは何故か、私が感じた疑問を考察しました。持続の概念では、前の状態が今の状態に浸透して入ってきています。従って、ベルグソンは、現在・未来・過去というように分節して考えることを好みません。現在を起点にしてイマージュが浸透し未来が持続のながで生成します。未来はベイズ推定やAIで予測して、これですと示せれるモノではなく、過去と現在が浸透して生成し続ける連続的なプロセスとして捉えています。

2026.01.12「地平の融合」では、ガダマーの「理解するとは」について考察しています。ガダマーにとっては理解は、「何々について分かりました。終わり」ではありません。現在の理解が、体験や経験によって変化していく運動です。前の理解に今得られた知識が入り込み、アップデートした知識に変化して行きます。理解することがプロセスであることをよく表しています。期間としては生きている時間全体でしょう。

このようにプロセスの捉え方は、すでに完成したモノとしてあるのではなく、関係性の中で生成し変化する流れです。はいこれですと提示できるモノとは対照的です。

ベイトソンの精神

ベイトソンの精神の定義は6つの条件が成立することにあります。これを一つ一つの述べて解釈していくと多くの量になりますので、私が捉えた全体像を述べます。彼は、私たちが通常使っている”精神”という言葉に対して、彼が示した条件で定義できると述べているのではありません。これになかなか気づきませんでした。モノではないプロセス的なる在り方を精神と呼んでおり、これは6つ条件でプロセスでないモノと区別できると言っているのです。サイバネティックスらしく、伝搬の連鎖とフィードバックを述べています。形態を変えて連鎖しフィードバックするのは差異の情報です。モノではありません。そして情報を形を変えて次々に伝達している機能を維持するにはエネルギーが必要です。そのエネルギーの供給は、運動方程式のように、モノが衝突することでエネルギーが伝わっていくというのではありません。何かしら内部に変換され蓄えられたエネルギーを使います。これは例えば代謝です。食べ物を食べることで、内部にエネルギーを蓄え、それを使って各機能を動かします。衝突でエネルギーの交換を行い動く対象はモノで、精神ではありません。ベルグソンはフィードバックしている期間に対して明示的なことは述べていませんが、フィードバックが成立している間が精神活動で、差異で始まり差異が無くなり連鎖が止まることで終わると考えていたように思います。彼の特徴は”精神”は、何かのパターンを生む、構造化が背後にあるとしたことでしょう。これはこれまでの議論を逆転させるような印象がありあます。これまでの議論はフィードバックの現象を知っていて、それが、精神や社会システムにも適用できるという話をしてきましたが、恐らく彼が注目したのは、その逆です。例えば会話の場合、私ー>発話ー>あなたー>反応ー>私というフィードバックが想定できますが、会話している背後には、「私ー>発話ー>あなたー>反応ー>私」というパターン(構造)がある、と解釈したのです。つまり、体験等の背景には、差異が循環し続ける構造的なパターンがあり、この構造の上に現れがある、としたのです。彼は生物の対称性や形の似ていることに大変関心を持っています。これに関係する案件としては、2025.12.24「Copy:生物の形の模倣1」及び、2026.01.23「生物の形の模倣2」があります。Copyでつくる同じ構造を持ちながら、実際の形は様々に作ることができます。これらは形のパターンです。同様に精神にもこういうバターンがあると考えたようで、それがフィードバック構造です。会話の話なら、会話がなくなると先ほどの構造も無くなるわけですが、この構造が維持されている状態がプロセスです。従って、「モノではなく、持続する関係やプロセスこそ本質です」。状態が成立している背後にはプロセスがあり、それはフィードバックの構造を持っているのです。

フィードバックとプロセス

ベイトソンが主張したことは、monogokoroが”場”を扱っている見方と類似しています。粒子の軌道の背景には、微分方程式やSDFを作るための、粒子の動きがあり、その背後の構造が軌道として見えているのです。見えている場を作る構造が背後にあるのです。Monogokoroではそれを大地、とも呼んできました。現れと背後の関係があり、背後の関係はフィードバックによる構造によって支えられています。現れと構造を一括していう言葉が、プロセスでしょう。

人はどうしてもモノで考える癖があるように思います。精神とは何か、意識とは何か、自我とは何か、生命とは何か、と問うとき、無意識に、それはどこにあるのか? それは何でできているのか?というモノの問い方をしてしまいます。でも、音楽、会話、ダンス、遊び、愛情、家族、学習、等限りなくありますが、どれも指さして、”これがそれです”と示せません。寧ろ、一定の関係が維持されている間だけ現れます。それはそこに存在している、というようより、生起する、あるいは、生成される在り方です。これらの在り方がプロセスで、ベイトソンの精神もこのことを述べています。彼が著した「精神と自然」の中に感じとれる精神は、それは魂のようなものではなく、「生きている関係の組織化されたプロセス」と読めます。

これはオートポイエーシスも同じです。細胞を見ると、分子は生成消滅し、材料はどんどん入れ替わっていますが、それでも細胞は細胞で在り続けます。この背後にはモノが保存されるからではなく、生成消滅しながら関係を維持するフィードバック構造があります。

モノ中心である我々の日常では、愛がある、心がある、社会がある、知識がある、等と言い、まるで物体として存在しているように聞こえます。しかし実際は、愛するという継続的行為、心的プロセス、社会的相互作用、学習の継続、という動きがあるのです。名詞があるのではなく、動きがある。この動きを作っているのがプロセスです。

存在するモノも時間を長くとれば消滅するということを考えると、「世界はモノによってできているのではなく、持続する関係と生成するプロセスによって成り立っています」。何でもモノとして探す、扱う、そうした姿勢を止めて、「生成するプロセスとみる」この姿勢は大切な見方だと思います。2025.09.08の「構造主義の観点 背後にながあるのか」では、構造主義者は「世界の背後には構造がある」と主張したと述べました。この構造主義者達の言う構造は、静的な構造です。言わば建造物です。今回述べている構造は、フィードバックの動的な構造です。また、2025.06.05の「オブジェクト指向プログラム、世界の捉え方」では、ヴィトゲンシュタインの「世界とは事物と出来事の集合の総体と定義する」と、オブジェクト指向プログラムの、対象の属性であるプロパティと、動詞に当たるメソッドからなるクラスの概念との関係を述べました。ここに動詞が入っていることは注目に値します。しかしこれはモノが在ってそれが動く、という考えを感じとれます。ベイトソンが述べているのは、モノではなく「生成消滅しながらも持続するフィードバックプロセス」です。ここに質的な変化を感じます。

まとめ

現われや行動の背後にそれを維持するフィードバック構造があり、それをプロセスと呼びました。そして、指で指し示すことができるモノが全てではなく、世界は持続する関係と生成プロセスによって成り立つ在り様も、非常に多くあることを述べました。寧ろ歴史や地質学的時間を思うと、プロセスの在り方こそ本質です。Monogokoroではプログラムでプロセスを表現したいと思っています。

表紙の図は、代謝をイメージして作製したプログラム、クルマが走行することでできるプロセス絵画、「人とモノとのコミュニケーション」をテーマにした案件をまとめました。

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