はじめに
TouchDesignerのようなインターラクティブなビジュアルプログラムの将来像について考察します。pythonのようなコードで書くプログラムに比べて、AI時代には異なる進展の仕方をするのではないかと思っています。最近流行してきたプログラムの仕方にバイブコーディングがあります。意図をAIに伝えることでAIがコードを書く方法です。これはコードで記述するプログラムでは相当な進展があるようです。大変効率的ですが身体的ではありません。バイブコーディングはビジュアルプログラムではそんなに進んでいません。pythonやCのような社会実装が進んでいるメジャーなプログラムに対して、ユーザーが圧倒的に少ないことが大きいと思います。しかしそれ以外にも、ビジュアルプログラムではオペレータをつないだ図で解答してほしいわけで、しかもそれをコードのように、コピーアンドペーストすれば良いようにしてほしいのです。しかしAIはオペレターをつないだ図として返してくれません。またオペレータの接続の仕方だけでなく、そのオペレータのパラメータの設定が重要であるので、オペレータは階層的である必要があります。これも難しい点だと思われます。一方ビジュアルプログラムは、プログラムの途中もビジュアル化でき、インターラクティブにプログラムを進めていけるため、身体的, 体験的です。私の印象では効率的というより、身体的, 体験的なところが優れており、特徴的だと思っています。ここで身体性と言っているのは、触感的、時間的、プロセス的、反射的、作成者の動きがそのまま結果に反映される、等のことを指しています(2026.03.31 「プログラムと身体性の関係」)。今回はこの特徴を生かすとどんなことができるかを、現象学の視点から考察しています。
現象学の視点
現象学では「愛」、「正義」、「カッコいい」等のような主観的・価値的な概念を、体験の語り合いを通じて共通点を抽出し、メンバーの中で一応の同意を得る手法を持っています。このポイントは知識は一旦横に置いておいて(これをエポケーと言います)、どういった時に「愛」、「正義」、「カッコいい」を感じたか、といった体験を挙げていくことです。体験の中から共通点を抽出していきます。この共通性のことを間主観性と言います。ここでは「定義がないとわからない」とか、何々の本にこのような説明があった、等はナンセンスです。自身の身体的経験から立ち上げることが大切です。この身体的体験をビジュアルプログラムが持つ身体性によって作っていけるのではないか、これが今回の主張点です。コンピュータを使うとシミュレーションができます。これは客観的に現象を観察する視線です。そうではなく、インターラクティブなプログラムが持つ身体性から体験としてみる視点を持ち込もうとしています。
ナラティブ・パッケージ
現在のビジュアルプロミングはまだまだ、思ったことを映像や触感, 音等にすぐにできる段階ではありません。しかしもっと先になりますが、比較的容易に作製できるようになっていくでしょう。インターラクティブなプログラムは「こう動くと、こんな風に見える」、「これを付けると、こんな動きになる」等を感じながら作っていくのでプロセス的であり身体的です。体験のプロトタイプという意味合いがあります。そしてプロブラムでは架空の状態を作れます。このため、まだ起きていない体験を身体的に試作する方法になりうるのです。これが「概念の身体化」に役立つのではないかと想像できます。
体験が共有できれば、間主観性の形成が加速します。例えば「あなたの思うカッコよさ」、「私の思うカッコよさ」、それぞれを体験として生成し、それを比較、調整、議論へともっていけます。
1.体験(インターラクティブなプログラム)2.その体験の意味ずけ 3.他者との比較 4.共通点の抽出 5.ナラティブの定着
このひとまとまりが今回のナラティブ・パッケージです。曖昧な主観的概念を、体験として具現化する媒介にインターラクティブなプログラムを活用する、その方向があるでしょう。
体験の混合
今月は熊本地震の10年目に当たります。私はこれまで3度大きな地震を体験しました。熊本地震に遭遇したわけではないのですが、ニュース等をみると、「あー、そうだな」とか、「そういうことがおこるなー」とか思います。これまでの体験や言説が、実際には遭遇していない地震に対して、体験として思い出されます。様々なことがないまぜになって全体で地震の体験として在るように思います。また私は生物の形状をcopyを利用して作製していますが、生物を触った体験や、釣りをした体験、化石で見る生物の痕跡、そしてプログラムで作る生物の形、こうしたことが全体となって生物の姿をイメージしているようです。それを個々の体験として区別しているようには思えません。ですのでインターラクティブなプログラムによってできる体験も、実際の体験と同列に取り込まれ、混ざりあい、全体として体験化すると思います。ナラティブ・パッケージが成立する背景には、このように人の体験はないまぜになる性質があるように思います。従って、実体験ではないプログラムとAIを活用することでできるプロセス体験も、ナラティブ・パッケージの体験と成ると考えます。
まとめ
インターラクティブなプログラムの将来像として、体験化に役立ち、「間主観性」を作る方法になるのではないか、という提案をしました。1.体験(インターラクティブなプログラム)2.その体験の意味ずけ 3.他者との比較 4.共通点の抽出 5.ナラティブの定着、の一連の流れをパッケージと呼び、物語を作るナラティブ・パッケージの一つになると主張しました。
表紙について
今回のようなblogは表紙がなかなか難しいですが、次の意図で作成しました。今回のナラティブ・パッケージは、「戦争」のような本来体験すべきでない世界をインターラクティブなプログラムを通じて体験させることに強い意味があると思います。そこで2つの戦争により破壊された荒涼とした風景の前に佇む男女をAIに描いてもらいました。背景に使った2つの映像はこれまでに私が作成した映像です(2025.10.08「人の痕跡」, 2026.03.27「凸凹を作る技術・・・」)。本来なら「戦争」を意図して背景を作ると、そのプロセスが体験とナラティブに繋がります。今回はすでに作成した画像から選んだわけですが、この選択や構造を決めるプロセスだけでも体験的な意味があるように感じました。プロセスが容易になれば、複数の人達がプロセスを通じて体験したナラティブを議論することで、間主観性を得るのに役立つように思います。

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