唯識1:準備

認識論

はじめに

東洋哲学に関心があります。20年以上前になると思いますが、わからないままよく本を読んでおりました。”空(くう)”や”唯識(ゆいしき)”には一度ははまる方が多いのではないでしょうか。後で詳しく話しますが、唯識は「認識世界がどのような構造で成り立っているか」という構造を扱っています。Monogokoroでは、相空間やストレンジアトラクターの話を何度も取り上げました。これらは場の構造を扱う概念です。個人的には、唯識と相空間やアトラクターは構造という点で関係あるように思え、唯識への関心が高まりました。唯識についていつかblogを書きたいと思っていたのですが、これまで相空間やストレンジアトラクターを扱ってきたので、今だなと思いました。

力学との比較

大昔のことですが大学で学ぶ力学について思い出してみます。最初ニュートンの運動方程式を解く練習を行います。これは個別具体的な場面を想定し、質量や力を与えるとどう運動するかを解きます。運動方程式の万能さに驚きます。そうこうしている内に、解析力学、即ち、ラグランジュ形式とハミルトン形式を学びます。ラグランジュ形式のL=T−Vから運動方程式を導けることを知ります(Tは運動エネルギー、Uはポテンシャル、エネルギーが根本であるという考えに移ります)。根本と思っていた運動方程式を導くことができる関係があることにたまげます。そしてはハミルトン形式H(q,p)を学び、系のエネルギーを表すハミルトニアンが相空間の運動で表すことでき、運動の背景には地形といえるような構造があることを知ります。衝撃でした。この段階では運動方程式の個別具体的な問題を解くことから、運動の背後には何があるのか、という構造に関心が向かいます。そして後に、このハミルトニアン形式が量子力学で再び登場し、感嘆致します。理系の多くの学生はこうした体験をしているでしょう。今思うと力学を専門としない者にとっては、ラグランジェやハミルトニアンを直接扱うことはそう無いと思います。しかし今ではこれが、構造を扱う、抽象化する、ということを学ぶ練習であったことが分ります。勿論当時はそんなことは知る由もなく、運動方程式と違う概念の力学に触れ、非常に高い概念のハードルを感じ格闘したのでした。

唯識はこれと似ています。初期仏教では、・苦しみがある、・執着がある。・修行して解脱する、という具体的・実践的な話が中心です。人は「苦しんでいる」、そこから、「どういう構造が在るから苦しむのか」、そういう認識のメタレベルへ入っていくのが唯識でしょう。釈迦の凄い所の一つとして、一人で個別具体から、縁起の観点を使って構造的化するまでを成し遂げられたことが挙げれます。唯識は釈迦とは違った観点から構造化します。これらは運動方程式と解析力学の関係と似たところがあります。それ故学ぶのには、新しい概念を扱えるように自分を変えねばならず、困難であり、刺激的です。

釈迦は勿論、ラグランジェも唯識を説いた無著(むちゃく)と世親(せしん)も天才です。個別具体的なことを体系化しようとする行為は、時間が経てばその内に出てくることです。しかしそこに特別な観点、釈迦なら縁起、ラグランジェならエネルギー、唯識なら「心だけが在る」を導入し、一機に構造を打ち立て新しい解釈を提供する方は極めて稀です。現象を整理することを超えて、それを使うことではじめて解釈できることが提供されます。

経と論

唯識を学ぶ際に引っかかった一つとして、唯識経というような名前で呼ばれていないことでした。例えば「空」の思想なら、「般若経」及び「般若心経」というお経に書かれています。「法華思想」なら「法華経」、「浄土思想」なら、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」と言ったように、お経で思想が語られています。唯識を調べてみると、解深密経(げじんみっきょう)と楞伽経(りょうがきょう)等、関係するお経はあるようですが、経典よりも論書によって完成しています。唯識を作った無著(むちゃく)は「摂大乗論」「瑜伽師地論」を書いていますし、世親(せしん)は「唯識三十頌(じゅ)」を書いています(唯識三十頌の解説本を読みました)。お経は、釈迦が本当に述べたかどうかは別にして、釈迦が説いたとされる形式を取ります。例えば法華経なら、「霊鷲山で釈迦が説法した」という舞台設定を取ります(お経の成立は釈迦が無くなって500年程後なので、本当に釈迦が話したことを書いているのかというと、わかりません。建て付けがそうなっているということです)。そして新しい宗派(宗教)に繋がっていくことが多いと思います。唯識を唱えた無著と世親は、恐らく新宗派を作ろうとしたのではなく、大乗仏教の真意を整理し直した、だから真意を正確に伝える書物として、論となっています。内容も哲学的・学問的な側面が強いです。唯識の前には「空」の思想があり、これが「何も無いなら何してもよい」と言ったように誤解する人がいたようです。こうした傾向を正そうとしたと言われています。

仏教史を大づかみに見ると、原始仏教は「修行の実践」、部派仏教は「教義の分析」、大乗仏教は「悟りの意味の再解釈」といった流れがあります。唯識は「大乗仏教の思想を、主に認識論として体系化した」という側面があります。

輪廻と諸法無我

我々は自己の行為の業(ごう)によって、六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を生まれ変わり死にかわり続けるという輪廻思想があります。これは仏教の前のウパニシャッド哲学にもあり、仏教も踏襲しています。この六道輪廻から逃れるのが悟りです。死ねば肉体は無くなるので、それでは何が輪廻するのか、ウパニシャッド哲学ではこれは「アートマン(我)」です。ウパニシャッド哲学でも、アートマンは主体といったような素朴な存在ではありません。私は常に変化しており、私を包摂する固定した領域が無い、ということをすでに知っています。正直比喩でしか語られていないので、アートマンが何かははっきりしません。2025.12.19のblog「梵我一如」では、私の考えとして、「様々なモノによって影響を受け変化し、言葉や風土の持続の中で自分を創り続けていくことを可能にする働き」をアートマンだと解釈しました。一方釈迦は諸法無我を説いています。つまりアートマンは無いと述べたのです。輪廻を認めてアートマンを認めないというなら、それでは何が輪廻するのか、ということになります。釈迦はこれを「業相続」としています。現在は過去の行為(業)の結果です。現在の行為は未来の私の在り方に影響する、つまり過去の行為の影響が相続されて続いていくとしました。しかしこれでは納得できません。行為の影響がどこかに残っていないといけないからです。業を蓄えて相続する何か実体が輪廻の主体として在ることになってしまいます。つまりアートマンは業のことですか、それならアートマンはあるじゃないですか?となってしまいます。このように輪廻と諸法無我とはしっくりこない感じが残ります。後で述べる唯識の阿頼耶識(あらやしき)は、これに一定の答えを与えます。

中入り

唯識について書き始めましたが、書いていると前振りが長くなりすぎました。ここまでを中入りとし、次回唯識を紹介したいと思います。
ところで、若い方は「中入り」という言葉を御存じでしょうか、寄席等の途中休憩、映画であれば、昔はフィルム交換をする必要があり、その際の休憩時間のことです。

表紙の画像は、形状にsprinkle POPを使って粒子化し、それをフィードバックを使って変形させ、粒子が様々な方向に飛び出すように見せた映像です。阿頼耶識の種子(しゅうじ)をイメージして作製しました。

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