人の特性8:ストア哲学による物語を作る負の側面の切断

ナラティブ

はじめに

ストア哲学は理性によって情動をコントロールすることを説きます。私たちは自分に影響を及ぼす出来事自体をコントロールできません。しかしどのように対処するかは自分で決めれます。ストア主義者は、過去や他人の考え、生じた出来事は変えられませんが、自分がコントロールできることに注力せよ、と述べます。状況に対して情報に基ずく論理的思考、生活のあらゆる面で自制と節度、悪い人間を含め人を公正に扱う正義、勇気をもって問題に対峙し誠実に対応する、等を唄います。彼らが説くように生きること、それを求める姿勢は素晴らしいです。しかし、そうはいってもできないのが人間です。皇帝でありストア哲学者でもあったマルクス・アウレリウスのメモを集めた「自省禄」では、そうはいっても人間は、という面を見ることができます。ただマルクス・アウレリウスやカエサルと対立した小カトーは、自省し、自身が思う善を成すことに変えていった方々ですが、自分を律する態度は理解できますが、自分と違い過ぎて比較にならないと感じるのではないでしょうか。しかし自身が努力を重ねた上で上手くいかなかった時、ストア主義者はどのように答えるのだろうか、と自問してみると、彼らが答えそうな解答は、意外としっくりくるものです。そうした例を述べます。

セネカ「人生の短さについて」の例

セネカの「人生の短さについて」には次の文章があります。
「例えば或る人が港を出るやいなや激しい風に襲われて、あちらこちらと押し流され、四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海域をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないであろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである。」 
この文章は、他人から良く見られたいといった欲望によって行動した場合、自分の意思ではなく、他人の意思に支配させていると捉え、翻弄されていると述べています。そのような生き方に対して、実際長く生きたとしても、長く生きたと言えない、と言っています。ストア主義者は自分の主人は自分であるべきだと主張します。この文章だけを見ると、他にも解釈できるので取り上げました。例えば、海を渡る必要がある時、船に乗るということは、船に依存している、あるいは船を操る方に依存する行為です。ストア主義者はこれを受け入れるのか?荒れ狂う風に翻弄されて、目的地に行けなかったとすると、その時、ストア哲学はどう答えるだろうか、その状況で彼ができることを精一杯したならば、目的地に着けなくても満足するのか?そのような疑問を持ちました。
これらに対してストア主義者なら次のように答えるでしょう(個人的な考えです)。
1.自分ができないことを他者の力に頼ることは、ストア主義者は認めています。船に乗ることや、船頭に頼ることはOKです。人間は本来的に社会的存在だとしています、マルクス・アウレリウスは「人間は互いのために生まれている」と言っています。仲間を信頼すること、助言を受けること、協力すること、全く問題ありません。問題になるとすると、船に乗るという判断を他人にまかせた、あるいは、行き先を他人が決めた、と言った場合です。また、信頼できないと思っていたのに乗った、といった場合もそうでしょう。ストア主義者なら、「何をしたいかを他者に委ねるな」と言うでしょう。私はこの状況は劇画ゴルゴ13が参考になると思います。ゴルゴ13はストイックな生き方をしています。彼は信頼できる情報家や武器作りの専門家を使います。そして最終責任を引き受けます。状況が悪化したら、その時できる最善を行うことに集中します。ストア主義者だと思います。
2.次は、最善を尽くしたが目的地に付けなかった場合、どう答えるかにつて考えてみます。
ストア主義者は目的地に着けなかったことを失敗とは考えないでしょう。なぜなら、目的地到着は自分がコントロールできることではないからです。私ができることは、目的地を決める、船を決める、日時を決めたりすることです。また自身が船頭の場合、舵を握ることです。風や波を自由にすることはできません。ストア主義者にとっての成功は、正しい判断をしたか、誠実に努力したか、勇気を失わなかったか、等です。しかしそういっても、結果が上手くいかなかったのなら悔しくなるし、後悔するのではないか?という疑問が浮かびます。
3.結果が上手くいかなかったら後悔するのでは、に対する考察
ストア主義者も「残念でない」、とは言わないと思います。セネカも悲しみや、怒り、不安について語っています。問題は次にあります。「だから自分の人生は失敗なのだ」、「自分は価値は無い」、「船頭が悪い」等、飛躍することです。ストア主義者はこの飛躍を切り離すに違いありません。人間は、後付けで理由を付けたり、何かをあるいは誰かを悪者にして納得する、といった癖があります。ストア主義者はこれを警戒しています。ストア主義者は次にように答えるでしょう。「起こった事実に、余計な解釈を付け加えるな」と、彼らが行おうとしていることは、事実を認識する、それに対して自分がコントロールできることをすることです。余計な付け加えが苦しみを大きくします。ストア主義者のことを感情を無くそうとした人達、というように思っている方はいらっしゃるかもしれません。しかしそれは違うでしょう。彼らが警戒しているのは、感情そのものではありません。感情を増幅する物語を勝手に作って付け加えることです。これに注意すると、結果の残念さは感じますが、自己否定に落ちいらないですみます。上手くいかない時、この考えは重要です。
Monogokoroでは、自身の体験や行ったプログラムを使ってAIと協力してナラティブを作ることを提案しています。blog「ナラティブ・パッケージ1~4」がそれです。この物語を作る性質が、失敗に対して、絶望や価値がない、といった物語も作ってしまう、と考えています。人生を楽しんだり、積極的に生きるためには、物語を作る性質は必須です。ストア哲学は、一方を活かし、他方を断つ、ことの処方箋です。

ゲド戦記「影との戦い」の例

次はル=グウィンのゲド戦記シリーズの中から「影との戦い」を取り上げます。この話は、自分に能力があることを見せようとして、禁断の魔法を使います。それが上手くいかず、自分の闇の部分を呼びだしてしまいます。そして最後この闇と対峙し、統合することで自分を取り戻す話です。ユング心理学にシャドウという概念があります。これを物語にしたような印象を持ちます。他者の眼を意識して生きること、怒り、嫉妬、承認欲求、虚栄心、と言ったモノを心に抱えながら押し込めると、それらは無意識に沈み、シャドウになります。そしてある日爆発します。ゲドは偉大な魔法使いに見られたいという欲望を抑えきれず、影を呼出します、そして影は敵ではなく自分自身だったと気づき統合されます。この物語をストア主義者ならどう読むだろうか、これを考察してみます。
多くの方は、ストア主義者は欲望を否定すると思われるでしょう。しかしこれも違うと思います。ストア主義者は「欲望を持つな」とは言わないでしょう。代わりに「欲望があることを認めろ」と言うでしょう。「他人から認められたい」という気持ちを、持ってはいけないとせず、まず「自分が承認を欲していることを認識せよ」です。自身の心を観察することがはじめです。そして次に「他者の評価は私がコントロールできることではない、徳が私のコントロールすることだ」と考えます。これは前の節と基本同じです。まず認識し、それに対して自分がコントロールできることをする、これがストア主義者です。実際「影との戦い」の主人公ゲドは、長い葛藤を経て、このように行動します。ストア主義者とユングとの距離は、割と近いかもしれません。

まとめ:工学とストア哲学

人は、何某かの物語を空想して、楽しみを作ります。この物語を作ろうとする性質が、失敗や満たされない欲望に対しても勝手に物語を作り暴走します。物語を作る性質には負の側面もあるということです。工学的な手法は、モノや現象を観察し、原理や実験に基づいて加工し、コントロールします。これとストア哲学は似ています。対象がモノや現象でけでなく、心を観察し、コントロールできることに集中します。ストア哲学は、人の物語を作る性質の負の側面を知り、それを断つのに役立つように思います。

表紙の画像は、”影”と言う言葉から、影絵を作っていた頃があったのを思い出し作製しました。蝶々の形を作っておいて、そこにphong MATのColor Mapに模様を入れます。背景はL-systemによる植物です。

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