遊びの考察

ゆたかさ

はじめに

在職中、電子回路の仕事は競争でしたが、インターラクションの仕事は遊びの要素が必要でした。日常とは違う別の体験を要求するからです。寧ろ遊びをどう役立てるのか、を仕事として考えておりました。退職すると、何かに役立出てようという気持ちは後退し、純粋に遊びの生活に入ってきています。Monogokoroのblogは私の遊びの中心です。他にも3つほどあり、それらを、そうこうしている内に夜になる。そんな生活になりました。そこで遊びについて考察しておこうと思います。私が遊びに関係している内容を読んだことがあるのが、良寛、ホイジンガ、カイヨワの3名です。彼らの共通点や違いを考察してみようと思います。更に考察を深めるために、遊びにならない例として、サマセット・モームの「月と六ペンス」に登場するストリクランドを取り上げ、良寛と比較してみます。

遊びの考察

遊びは、「人間が、現実から別の領域に入るための様式(モード)を示している」、これが私が感じる3名の共通点です。それぞれの方はモードが違います。それでは別の領域というのがどういうことか、を中心に考察していきましょう。

良寛

良寛は、江戸時代後期の方で、自然や暮らしの厳しさを受け入れながら、その中にも良さを見出した禅僧です。詩や歌が有名です。あばら家に住み、貧しい暮らしをしながら、
– 雪の冷たさの中に、静けさの美を見た
– 子どもの遊びの中に、生命の喜びを見た
– 風の音の中に、世界の呼吸を聞いた
こうした境地に達した方で、尋常ではありません。仏道の実践者です。現実と遊びが分離していない稀有な方です。心の在り様で幸福にも不幸にもなる。それを後の人に示しています。こうした方はイメージでは山奥に住む変人というところですが、彼は人々と親しみ、且つ愛され、子供とよく遊ぶ、近しい人であったのです。彼の存在は驚きです。

彼に関して「別の領域に入る」というのは、上で述べたように、彼も生身の人ですから、厳しい環境で、寒さやひもじさが実際にはあったはずの環境にいながら、その現実の中で、その同じ環境に対して、美や喜びを見出していることです。彼の場合、現実と別の領域は重なっています。詩や歌を詠む時は、別の領域に入っていたと思いますが、それが、日常と非常に近いところにあります。

私は良寛に強く惹かれます。彼の様に、あばら家に住み、彼ほど貧しい暮らしをしているわけではありませんが、質素な暮らしを心がけ、実践しています。彼が歌を作るような行為が、blogを書く行為に似ていればいいな、と思っています。

ホイジンガ

ホイジンガの言う遊びは、儀式や儀礼で文化に通じるモノです。彼の主張は、
– 遊びは文化より古い(動物にもある)
– 遊びは自由で、非日常で、ルールに支えられる
– 遊びは“聖なる円環(マジックサークル)”をつくる
– 法・戦争・儀式・芸術など、文化の核は遊びに由来する
と言ったところです。「文化は遊びから生まれた」と大胆に述べています。彼のいう遊びの例に、仮面をかぶり・踊り、周囲を巻き込み、一体となっていく、話があります。仮面をかぶるのは、神や精霊に成ることです。これはもう一つの世界で、そして彼らの共通する世界、神話です。つまり別の領域に入って行っています。これは最近何度か扱ってきた相転移です。祭りの日、彼らは相転移するのです。現実の世界の横に、もう一つの世界があり、そこへ踏み入れることを遊びと言っています。

カイヨワ

彼はホイジンガの主張を受けて、遊びがどう現実を変容させるかを分析した方です。その分析結果は、
– アゴーン (競争)→ 現実に秩序を立ち上げる
– アレア (偶然)→ 現実を運命として読み替える
– ミミクリー (模倣)→ 別の存在になる
– イリンクス (眩暈)→ 自己の境界を揺らす
です。遊びが我々をこうした領域に連れて行ってくれると言っています。カイヨワがホイジンガと同様に別の領域に相転移する主張で、その相転移のタイプに上のようなモノがあるとしたと解釈しています。

話しはずれますが、カイヨワは石が好きで、「石が書く」という本を書いています。私も石が好きで、この本はお気に入りです。

三者の比較

良寛は厳しい現実そのものに遊びの領域を見出しています。つまり遊びは「現実の奥行」です。一方、ホイジンガやカイヨワの遊びは現実とは別の領域にあります。ホイジンガが別の領域があることを述べ、カイヨワはそこに入る道を分類したのです。良寛は宗教者で実践者です。一方、ホイジンガやカイヨワは学者です。分析・解析をしますが、それに成るわけではありません。私自身は良寛に憧れます。

遊びにならない例

サマセット・モームの「月と六ペンス」は、画家のストリクランド(架空の人物)の生涯を描いています。画家のゴーギャンに着想を受け創作したと言われています。ストリクランド後半生は、
1. 質素な暮らし
2. 自然の中での生活
3. 創作に没頭
4. 社会から離れる
という、外側を見ると良寛と似た生活をします。しかし、その内側は全く違っています。良寛は遊んでいますが、ストリクランドは遊びとは言えません。この違いを考察することで、遊びが浮かび上がるように思います。

ストリクランドはまず仕事(社会)を拒否する人です。仕事には、
– 社会的役割
– 経済的交換
– 他者への貢献
– 再現可能なスキル
を前提にしていますが、彼はこれらを全て拒否します。彼は「絵で食べよう」とも思っていないし、他者からの評価もまったく興味がありません。一方遊びの前提は、
– 自由意志
– 余暇
– 無害性
– ルールの中での没入
です。しかしストリクランドは、
– 自由ではなく、「描かずにはいられない」強い衝動の持主です。
– 余暇ではなく「生存の中心」、この為に生きています。 
– 無害どころか周囲を破壊します。
– ルールではなく衝動に従います。
そうした人物として描かれ、遊びの「枠」にも入っていません(このまとめ方はAIと議論して作ったモノです)。彼は遊びの前提に対しても「拒絶」する人です。「社会」も「遊び」も拒絶し、タヒチで破壊的な衝動を絵にだけに向けられる環境を絵て、後世に残るすばらし芸術を生み出します。

一方良寛は、世界を受け入れ、世界を拒否するどころか、一体となろうとしています。禅の生活を実践しています。遊びには、
– 世界と調和する
– 自然と一体になる
– 孤独が開かれている
– 他者と柔らかくつながる
こうした態度があります。ストリクランドは素晴らしい芸術を後世に残すのですが、だからいいとは思えません。遊びが価値ある何かに繋がる場合があるのは事実ですが、価値ある何かに繋がるのは遊びだけではありません。拒絶や破壊、衝動からも生まれます。現実としては破壊によって、新しい価値を創る場合があるのも事実です。しかし遊びから生まれる意識しないで創られる価値は、概してプロセスに決定的な害を与えません。ここに、遊びから創る大切さがあります。現代社会が目的化しすぎて、遊びを忘れていく方向はプロセスを破壊するでしょう。

感想

これを書くにあたり遊びについて考え、遊びはいいな、とあらためて思いました。Monogokoroではビジュアルプログラムを紹介していますが、これは体験的です。書いた結果が絵や音で現れるので、それを見て考え・作ることを繰り返しています(プログラムについての考えをまとめたのが、2026.03.31のblog「プログラムと身体性の関係」です)。そうこうしている内に、割と遠くへ来たな、と思ったり、最初に戻ってしまった、とか思います。このように体験的なのが、上の3名でいうと良寛に近いと言えるでしょう。私は実践者でありたいのです。そのことが分かった気がしました。
また昔読んだ「月を六ペンス」を思い出し、再度読み返しました。読後AIと議論しながら、まとめました。現代の価値を生めばよいという目的化した方向は問題でしょう。これは良寛とストリクランドの違いに現れます。破壊しないで価値を生む遊びの手法は、決定的に重要と思います。

表紙の写真はカイヨワにちなんで、私の石のコレクションの一部です。化石が主ですが、いまだに、出かけた先で石を拾って帰ります。背後に地質学的な悠久の歴史を隠していることが魅了です(退隠)。空想にいざなってくれます。

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