道具と外注についての考察

ゆたかさ

はじめに

今回はイヴァン・イリイチの外注することが依存につながり、結果自分を無くしてしまう。だから、ほどほどにする必要がある、という主張を紹介しようと思っておりました。書きはじめると、ハイデガーやユングとも関係しているように思え、話が広がりました。しかし対策が提示できません。そう思っていると、以前に紹介した良寛の「遊び心」、世阿弥の「道」が、対策になると思いました。この場面で日本人の思想が登場させれるのは、日本人としては嬉しいことです。効率よりも、過程、遊び、成熟を重んじる文化があるからでしょう。そして荘子の「ハネツルベ」の話がぴったりくると思いました。このように多くの偉人が登場する雑駁な話しになってしまいました。しかし、現代社会の「道具や外注」について俯瞰して考えるよい機会となりました。ここで述べる外注とは、本来自分が担うはずの行為・判断・経験を、外部の仕組みや専門家に委ねることを指します。

ハイデガーの道具連環

ハイデガーは人間の存在をネットワークに組み込まれた道具としての側面を指摘しています。道具は単体ではなくネットワーク(総体)として働く事を述べています。また、「金槌」等の本当の道具の例を用いていますが、それは人間存在の在り方でもあります。現代では実際そのようになっており違和感はありません。先見性があったと言えるでしょう。しかしそのことで生じる問題に対して解決策は述べていません。彼の関心は人間存在の構造にあって、対策ではなかったようです。まだ考え自体が新しかった時代だったのでしょう。例とした「金槌」の話を上げておきます。
金槌は鉄の部分と木の部分からなっており・・・、このような辞書的な説明で人は金槌を見ていません。金槌は釘を打つ道具、釘を打って家を建て、家はそこで住む道具であり・・・といったように、連環(ネットワーク)の中の働きとして道具を位置付ける在り方を指摘しました。これは金槌だけでなく、人間も社会のネットワークの連環の中で、何かの道具を使って何らかの働きをする在り方があることを述べています。人間は道具を通じて世界に開かれている存在です。道具を上手く使えるようになることで、変わって行く存在です。それではこの考えでは「外注」はどのような位置づけになるでしょうか?少し大げさに感じますが、私の存在の一部を外部委託していることになります。これはあるネットワークから私の存在を消していることに繋がります。その部分に関する変化も生じません。全て外注し全てのネットワークから消えてしまうと、自分自身がからっぼになってしまうことが想像できます。

イヴァン・イリイチの外注に対する考え

イリイチはハイデガーの道具連環を受けて考えたということではないようですが、結果的には上の問題に対する解答を与えています。つまりイリイチは外注が過ぎると主体の喪失が起こることを警告し、ほどほどにする必要があることを述べました。「サービスを消費する人間像」を描いています。彼は道具と人間の関係性には分水嶺があることを指摘します。分水嶺を超えると道具が人を支配するようになります。例えばクルマを例に説明すると、クルマは移動を解放する道具です。しかしクルマが普及するに合わせて、都市の構造はクルマが前提に設計されるようになります。そうすると、クルマが無い生活が成り立たなくなります。誰もが免許を取る必要があります。それと並行して、クルマを買う、税金を払う、車検を受ける、バス料金を払う、タクシー料金を払う、と言った維持費とサービスを使う必要に迫られます。これらを消費し続けないと、そこでは生活できない仕組みに組み込まれるのです。これは移動を外注した結果と言えます。このように管理されるシステムに組み込まれる道具をコンヴィヴィアリティでない道具と言います。資格等もコンヴィヴィアリティでない道具です。本来は自分で勉強してできるかもしれないですが、できる/できないとは関係なく、学校等へ通って証明書をもらわないと認められません。そしてそれには消費する必要があります(お金がかかります)。このように、クルマに任せる、専門家に任せるといったことも外注です。これによって、自転車に乗るとか、歩いていくとかいうことが事実上無理な距離である場合、これらの選択肢は奪われ、その能力は自然に低下します。また何でもお金をだして専門家に聞くことになり、本来ちょっとしたことなら自分で治すことができるわけですが、その能力を失います。これらは能力を失うだけでなく、それを行うことによって得られる体験も失っているのです。AIもまたそうした要素が多くあります。このような状態を「近代化された貧困」と呼んでいます。それではコンヴィヴィアリティな道具とはどんなものでしょうか、だれもが自分の目的のために自由に使え、そして専門家の許可や免許がいらない道具です。創意工夫して使うモノはたいていこれに入ります。後で挙げる「遊び」は典型です。このように外注は、お金があれば便利ですが、それにともなって人の能力を低下させ、体験によって得られる機会も奪っています。このような負の側面があることを認識すべきだと主張しました。

外注する理由は大きくは次の2つでしょう。
1.外注して空いた時間を有効活用する。
2.効率よく綺麗な仕上がりにして、高い評価を受ける。
しかし、どちらもやりすぎると問題があります。
1.の外注して空いた時間を有効活用することが、実際にできていれば問題はありません、全て自分で行うことは不可能ですから、より力をいれる所へ振り向ければいいわけです。しかし実際には、その空いた時間をYouTubeを見続けたり、SNSを見続けたりすることも多くあるでしょう。そうなると外注はモノを外へ出しているでけではなく、能力を失い、体験や経験する時間も無くしています。これにより自分自身の変革ができず、空っぽになって行きます。
2.は効率よく綺麗に仕事を終えて高い評価を得たいということですが、外注に依存すると、特徴がだせません。そして特徴をだそうと思った時、能力も経験もないのなら、何もでてきません。このため頼りすぎると結局は失敗してしまいます。これはその仕事が失敗するだけでなく、その人も、体験や経験の蓄積ができずに成長できません。
このように、行き過ぎると破綻の構造があることを知っていることは必要です。ですのでバランスが重要であるのは言うまでもないでしょう。

ユング的な見方

ネットワークやシステムの話になりがちですが上の、2.の観点は実存的な問題です。これを指摘したいと思います。特にプロジェクトの責任者は直面しがちです。通常責任者は「よく見せたい」、「評価されたい」という欲求を強く持っています。しかし外注依存になると次のようなことが起こります。
1. 外注によって仕上がりは良くなる
2. 評価は得られる
3. しかし自分は成長していない
4. 内側は空洞化する
5. それでも評価欲求は残る
6. ペルソナ(仮面)が肥大化する
7. 影と向き合う力がない
8. 外注に依存するしかなくなる
9. 外注できなくなると破綻する(経済的・心理的)
このようなことで、外注ばかりでは責任者自身も破綻に至るでしょう。この人にとっても何も残らない仕事になったのでは、次が立ち上がれません。外注依存は人格の成長を奪い、自分の影と向き合う力を奪います。

ここまで、ハイデガー、イリイチ、ユングを挙げてきました。ハイデガーは存在論的構造(道具連環)、イリイチは社会構造(外注と依存)、ユングは心理構造(ペルソナの肥大と影)、というように、三者は別構造を研究された方々です。そして外注依存はどの構造においても、人を空洞化させます。

破綻を防ぐ方法

イリイチが指摘するのはバランスですが、私は、「人間は道具を通じて世界に開かれている存在です。道具を上手く使えるようになることで、変わって行く存在です。」という、ハイデガーの指摘にヒントを得ます。これは、良寛の「遊び」(2026.06.14のblog「遊びの考察」)や、世阿弥の「道」(2026.06.28のblog「世阿弥と「他者の眼」」)に通じると思います。
遊びは「自分でやること」の喜びを回復する主体の再生装置です。外注依存で失われるのは、
– 自分でやる楽しさ
– 自分で工夫する面白さ
– 自分で失敗する経験
– 自分で発見する驚き
つまり、主体的な経験の源泉です。良寛の「遊び」はこれを取り入れることができるでしょう。「効率」や「評価」とは無関係な行為をどこかに持っている必要があります。

世阿弥の「道」は、生涯にわたって精進し続ける構造です。年老いても「老骨に残りし花」を求めます。これも、効率的で短い間で良い仕上がりを得る、というのと逆方向です。自身の身体と心を使って、ゆっくりと深めていきます。外注が「結果」を買うのに対して、「道」は常に「過程」です。育て成熟させていくのです。
これらは、外注と逆ベクトルを持ちます、それ故、破綻を防ぎます。

日本文化には効率よりも過程、遊び、成熟を重んじる傾向があります。これは外注依存の脱却と相性が良いように思います。

まとめ

今回のblogには荘子の「ハネツルベの逸話」がまとめに相応しいと思います。そこでこれを抜粋致します。100分で名著荘子からの引用です。
「孔子の弟子の子貢があるとき南方の楚に旅した帰り、変わった老人が畑仕事をしているのにでくわす。なんと老人は、トンネルを掘ってその底の井戸まで下り、水甕に水を入れ、それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいたのである。
あまりに非効率なことを憐れんだ子貢は、老人に「ハネツルベ」という水揚げのための便利な機械があることを告げ、それを使ったらどうかと進める。すると老人はむっとして、それから笑い、自分が師匠から教わったことだと言って次のように答える。
「仕掛けからくり(機械)を用いる者は、必ずからくり事(機事)をするようになる。からくり事をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすものだ。からくり心が芽生えると心の純白さがなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)のはたらきも安定しなくなる。それが安定しなかったら、道を踏みはずすだろう、ワシも「ハネツルベ」を知らないわけじゃない。だた、恥ずかしいから使わんのじゃよ」
これを聞いた子貢はすっかり恥入り、追い返えされて三十里も歩いてからようやく我に返った。いや、本人はそう思っているが、弟子から見れば、一日中我に返らなかったようなのである。」

私は便利な道具は使った方が良いと思っているし、効率も大事だと思っています。しかしバランスを欠いたり、何事も依存するようになっては弊害が大きいと思います。
昔、電気洗濯機ができた時、一部の人は「手で洗濯するから綺麗になる。心も洗っているんだ」と言ったという話を聞きました。汚れを落とす目的なら、電気洗濯機を使えばよいし、心を洗うなら手作業が適しているでしょう。道具は目的によって使い分けることが重要です。目的が「効率」なら機械、目的が主体の回復なら手作業。この選択こそがバランスです。

表紙の画像は「ハネツルベの逸話」をAI Copilotに描いてもらいました。「ハネツルベ」を使わずに組んだ井戸の水が、川のようになって、光に方に流れて行きます。そこに主体性を回復した子貢の姿があります。前面にいる子貢は過去であり、光に向かっている子貢が今です。

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