はじめに
8月は終戦の月なので、記憶について何か書こうと思いました。第2次世界大戦や三島由紀夫について書くのが相応しいと思いましたが、まとまらないなと思っていたところ、カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」を思い出しました。これは苦しく・悲惨な記憶を忘れたほうがよいのか、それと向き合うのがよいのか、を問うた小説です。また水樹和佳子の「イティハーサ」も思い出しました。若い頃衝撃を受けた漫画です。手元に残っていたので久しぶりに読み返しました。テーマとしては、神を信じ依存することで安定した生き方をする場合と、知ることを追求し、自由であるが揺らぎながら進む不安定な生き方の場合との、選択を問うています。過去の悲惨な記憶を神の力によって無くし新たに生きるのがよいのか、過去を背負っていきるべきか、はこのストーリの中で主要部分です。
どちらの話も、登場人物の背景には、アルヴァックスの「集合的記憶」が参考になると思いました。この本では、「個人の記憶は社会的な枠組みの中で形成される」という考え方をしています。私たちが何を覚えているかは、家族や地域、文化、儀礼、言語、国といった、「社会的な環境」によって形作られることを述べています。「忘れられた巨人」と「イティハーサ」も個人の登場人物の話を中心に展開しますが、「集合的記憶」が背景にあっての話で、これを丁寧に描いています。
本稿では、「忘れられた巨人」と「イティハーサ」の2つの物語を通じて、「記憶の痛み」と「大きな物語の現在」を考えます。アルヴァックスの「集合的記憶」の概念を手掛かりに、個人の物語と集団の物語のズレを読み解こうとしました。
表題は、「記憶の痛み」は人の特性とだと言えるのではないか、という観点から”人の特性7:記憶の痛み”にしました。動物やAIが「記憶の痛み」を持っているのか、は面白いテーマです。動物が死んだ仲間の近くをしばらく離れない場合がある。といったことは近い感じがします。しかし言語や儀礼、記念日などを通じて社会的に構築される、「集合的記憶」とは違っています。またライオンは馬を食べますが、馬はいつかライオンに復讐して食べてやろう、なんては思わないでしょう。襲われるから逃げる本能的な行動はとりますが、「記憶の痛み」に基づく復讐的な行動はありません。またAIは膨大な学習した記憶を持っていますが、人間のように、生きた経験や感情を通じて形成されたものではありません。「共感」も示してくれますが、感情や身体性としての共感ではありません。ですので、「記憶の痛み」は、人特有の性質だと言えます。
記憶の痛み
カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」は、まさに集合的記憶の重さと、それを「忘れること」の意味を問いかける物語です。竜クエリグの吐息によって生まれた「健忘の霧」によって人々の記憶が曖昧になり、かつての戦争や憎しみを忘れ、2つの民族は平和に暮らしている現状があります。真実は過去に残虐な争いがあり、恨みを持っています。竜の吐く霧によってそれを忘却しているのです。竜が死に霧を吐かなくなった時に再び暴力が蘇る可能性があります。竜を守ろうとする騎士と、竜を倒し真実と向き合うべきだとする騎士との戦いを描きます。そして老夫婦を介して、真実を知った後も愛は成立するのかを問うています。記憶の痛みが無いのがよいのか、真実を知ったほうがよいのか、過去を知った後も愛は成立するのか、このテーマの問いは大きな物語です。それをどう考えるかは読み手次第です。全体的な文章の流れからすると、真実を知り過去を思い出すが、個人の愛は成立する方向を示しています。しかしそれが民族間で成立するかは不明です。イシグロは真実に向き合う側の騎士であるウィスタンに次のように言わせています。「戦争はさけられない。記憶が戻った以上、民族は過去の暴力を清算しようとする」と。人々は真実を知るようになり、老夫婦の愛は壊れずによかった。という話ではありません。民族間の問題が解決したわけではないのです。
イティハーサはさらに複雑なストーリです。悪の神(威神)に従うことでその快楽におぼれて生きる使徒と、善の神(亞神)に無条件に従って暮らすことで平和を得ようとする使徒、そして、目に見えぬ神の使徒の三者の壮大な物語です。目に目えぬ神のメッセージが曖昧であり、これによって登場人物と読者に推測を促します。そして最後にそれが分かる展開です。使徒それぞれは異なる世界観を持ち、それぞれの集合的記憶があります。「記憶の痛み」の話は、威神に従っていた者達が、亞神の助けを得て過去の残酷な行いを忘れ、共に平和に暮らしている村があるわけですが、村の指導者は亞神が消滅することで記憶がよみがえる可能性を恐れています。このため自分の意思で生きようとする、超人的な力を持つ主人公の意思を抑え、見方に引き入れ続けようとします。三者の関係と捉えることもできますが、盲目的に神に従う者と自分の意思に従う方向に目覚める者との相克とも読めます。作者水樹和佳子自体は、彼女の答えを示しています。それは、安定でなくとも、自分自身で知ることを選ぶ、という最終回に向かわせます。彼女は、救いを求めるより、知ることを選ぶべきだ。と考えているように思います。人間の安定や調和より反調和(人の揺らぎがある、知ることを求める、人間的自由)に希望を見ています。それが最後になるまで明らかなにならないように展開することで、読者に考えさせ、すばらしい読後感を持たせる構成を取っています。みごとだと思います。主人公の物語として素晴らしい高みに持って行っておりますが、それでは威神や亞神や目に見えぬ神の使徒は、その後どうなるのかについては、幸せそうな場面を最後少し描いています。しかし威神・亞神の両方の神々が滅んでしまい、残された使徒たちは、記憶の痛みに直面し大混乱になるはずです。平和にはならないでしょう。このようにこの話もまた、主人公等の個人の物語としてはよかった気持ちになりますが、集団的には問題が解決したわけではありません。
大きな物語
Monogkoroではポスト・モダン思想を何度か扱っています。この思想では現代は「大きな物語」は終焉を迎えたことを指摘しています。それはその通りです。現代は、「記憶の痛み」も「生きる道」も、人それぞれでは共通の物語は描けません。しかし、「記憶の痛み」、「生きる道」について考える過程(プロセス)は、彼らが描いたように普遍的で大きな物語です。共通して目指す結果が無いとう点で、大きな物語が終焉しているだけです。今回2つの物語を読んで、「大きな物語は終焉していない」と確信しました。ポスト・モダンはまだプロセスに生きています。
感想
今回、この2つの話について書く過程において、ポスト・モダンが言う「大きな物語の終焉」は、問いとしては終焉していないと確信しました。同じ結論に収束するということが終焉しているだけです。恐らく現代の文学の潮流として、プロセスとして大きな物語を扱い、結論は読者の倫理観に委ねる、そうした方向があるのではないでしょうか。また今回取り上げた神話的な話は、主人公の物語としては満足的に終わりますが、集合的記憶の背景となる、民族やそれぞれの神の使徒達のような、その他大勢の集団の人たちの死や、その後どうなるのか、これには何の解決にもなっていません。そして想像としては集団の人達がハッピーエンドになる可能性はほとんどありません。ここからも、主人公としては葛藤をへて解消しますが、全体を満足させる解決は見つからない、という現在の現実問題と呼応しています。
ただ、このように読むのは、私が工学を学んでいるからかもしれません。工学では何が問題でどう解決したかが重要です。しかし今回の話は文学で物語で実存の問題です。民族や使徒達全体の問題をどう解決するか、といった社会問題を扱っているわけではありません。ですので文学的には問題にならないところが気になった。というだけかもしれません。
2026.06.05のblog「ストレンジアトラクターと現代社会2:サピエンス全史」において、大きな物語の終焉後、現代人が何で連帯できるのかについて意見を述べました。1.「残酷さをなくす」という倫理的連帯、2.公共性の場とインフラを維持するための連帯、3.地域制・歴史性・伝統等の文化的基盤を維持する連帯、と3つ挙げました。今回4つ目のとして、4.プロセスとして大きな物語を問う連帯、を加えたいと思います。
表紙の絵は、「忘れられた巨人」の一場面です。「洞窟の中、竜が横たわっている前で戦う、若い騎士ウィスタンと老いた騎士ガウェイン」の場面を、AI Copilotに描いてもらいました。

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